どうもどうもこんばんわ。ボクです。
さっき、ツイッターのログを見返していて
とあるツイートが目に止まり
そのスレッドをずっとたどって読んで
「うお・・・」となったのでまた読んで
「うおお・・・」となったのでまた読んで
さーっと、全部にいいねを押して
最初のツイートをRTしたところなのだけれど
さすが、言葉で世の中を動かしてきた人というのは
その言葉の使い方をよく知っているのだなということと
その自分の発する言葉で
多くの人を扇動できてしまう人そのものに
悪意があるとかないとかは
ボクが思うのには、多分悪意ではなくて
本人も純粋に「そのように」思っているだけだろうと思うのだけど
これは万が一、その人の考えが間違ってるときには
結果的に「悪いこと」になりうるのだろうな、と今、考え始めた。
何の話をしてるかと言うと
如何にも心地よく、温和で柔和で且つ中庸的に見え
更には冷静な視点を持っているように見えるものである時。
みんな、なびく。ボクもなびく。なびいていたけど
それって本当に正しいのか?ということ。
国単位、世界単位などの大きな単位で
危機的状況に陥っているというような場面において
最も大事なことは多分「正しい危機感」を持つことであって
危機感を覚えることを手放したり
危機感を感じないように自分の意識を
きゅっと目の前のことにだけ集中させることで
危機感を散らすというようなことは
よくよく考えたら、いいこととは言えない気がしてきた。
これはいつだったかボク自身が、このブログに上げた
「身の丈にあった暮らし」というような言葉に対する
一見良さげに見えるけど、これってかえって足かせになってね?と
ある日突然、疑問に思って、違うなこりゃと思ったことに似ている。
言葉はいつでも、捉え方次第であるし
解釈の仕方次第、取り入れ方次第であるからこそ
危険をはらんでいて、つと、立ち返ることが大切だと思う。
人間の身体の仕組みの一つであるところの
「熱」や「痛み」のことで考えたらわかりやすいかもしれない。
「熱」は悪いバイキンやウイルスをやっつけるために出す。
「痛み」は悪いところを知らせるために痛む。
不具合が起きてるよ、という大事なサインなのだけど
これをすぐに解熱剤で下げたり、鎮痛剤で取ったりする。
悪いところをケアするのではなく、とりあえずそうすることは
身体にとって良いこととばかりは言えない場合も多い。
高熱が続く場合は、高熱が続くことによって出る弊害が大きく
その場合は解熱することが大切だろうし
痛みもあまりに強い場合は
ひとまずそれを治めて安静を取ることが大切だけど
すぐに熱や痛みを取り去ると
かえって身体の出している大事なサインに気づけなくなる。
というようなことと同じに
危機的な状況にある時に「怖い」と感じたり
不安になったりすることも
身の危険、生活の危険を知らせる大切なサインなのではないか。
それなのに、怖いことや不安になることのしんどさから
先に書いたような
如何にも心地よく、温和で柔和で且つ中庸的に見え
更には冷静な視点を持っているように見える言葉になびいて
怖さや不安をごまかして、単純な日常の平穏を保つことは
良いこととは言えないのではないか。
言いたいことがまとまらなくなってきたけど
つまり、ボクは「正しい危機感」を持つ術の一つとして
怖さや不安は、ありのまま、怖いまま不安なままで
しっかりと様々な問題に向き合っていきたいなと思う。
みだりにそれらを手放して、ニコニコして
あたかも「安定している人」のように振る舞うのは、きっと違う。
危ないもんは危ないし、怖いもんは怖いし
不安なもんは不安でいい。
自分の暮らしの動き、世間の動き、国の動き、世界の動き
これらを自分なりに上手に俯瞰して
危険を知らせてくれる人や言葉、自分の感覚などを
ごまかしてかっこつけたりせず
いざという時に最善の判断ができるようにしていきたい。
ただ、それらを極めてしまうことは良くない。
あまりに極めてしまってパニック状態になる場合は
ちょっと目を閉じて、耳も塞いで、口にもチャックして
怖さや不安を手放す方向にシフトチェンジしたほうがいい。
そこらへんのコントロールをうまくやっていかないとな、と
そんな風に思うに至った。という、その話でした。
「正しい危機感」は、大事だよ。たぶんね。
現実を見つめる、受け止める、そして考えるという工程を
良さげな言葉でごまかして落ち着いてる場合じゃない。
良さげな言葉で扇動する人についていってる場合じゃない。
要注意。要注意。
コメント