どうもどうも、こんばんわ、ボクです。
突然ですが、ボクには絶対に許せないっ!という人が
なんと3人もいます。
なんで許せないのかというと
細かいことを書くとよろしくないと思うんで
ざっくり大枠だけ言っていくことにするんだけども
ボクは、生まれてから今まで、半世紀以上生きてる中で
本当にいろんな目に合ってきたけれど
ボクをやたらめたら目をつけて殴ったりしてきた教師とか
ボクの大学進学を阻止してきた教師とか
いじめてきた介護職員や看護師とか
小さい頃から、ずっとモラハラしてきてた叔父とか
まあ、いろいろいるけど
そゆ人たちはね。記憶は消えないけど、もうどうでも良くて。
赦してる、とは言わんのかも知れないけど、ほんとどうでも良くて。
そんなことより、どうしても許せないのは
表面的には仲良くしておきながら
実際はボクのことを嘲っていた人だったり
謂れのない罪を被せようとし
それを言いふらし陥れようとしていた人たち。
小さいです。小さい。ボクのハートは小さい。
ていうかー、今年に入ってからボクは
プロテスタントの教会に通うようになったでしょう?
そして、映画「パッション」を見たでしょう?
聖書も毎日読んでるでしょう?
そうするとね、自分の中に矛盾というか葛藤が生じるです。
イエス様は、ボクらに聖書を通じて「汝の隣人を愛せよ」と説いて
あんなひどい磔刑、迫害にあっても「赦します」と言った人で
ボクらの罪を一身に背負って絶命して
3日後に蘇られた人で、それを信じるってーと
何人たりとも「許すまじ」と思っちゃならんわけです。
また、マタイによる福音書7章には「人を裁くな」ということが書かれています。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
これは、まったくもってその通りだと思うわけで
ということは、絶対に許せないっ!とか思ってる場合ではないと同時に
自分の心の中で、その人たちのことを裁いてはならないのです。
また、これは聖書とは関係ないけど「情けは人の為ならず」というように
赦しも、裁かないことも、その人達のためではなくて
自分のためだったりするんだよなー、なんて思ったりもする。
許さないと思う時、人を心で裁く時
深く傷つき、慄き、怒りや憤りで胸を焼くのは、とにかく自分。
自分で自分を痛めつけてるに等しいよ、と、これなのであります。
なんとなれば、とにかく自分のためにも、なのです。
自分が裁かれんがために、自分が赦されるために
人も裁かない、赦していく。ということを
無理やりやってくんじゃなく、なるっだけ、自然に軽やかーにしれーっと
忘れていく。いや、忘れられんな。忘れられんので、赦すのです。うん。
例えボクが、心を砕いて、その人達を赦しても
その人達は、赦されたことすら覚えずに、ふんふんふん~♪と
生き暮らしているだろうけれども
そう思うとまたこれ、ムカついてきちゃうので
相手がどうあれ、自分が、自分のために、赦すのでありますよ。
そして「許す」と「赦す」が出てきましたが
この2つの違いはなんだろう。というのをついでなので調べてみるってーと
「赦す」は、罪や過ちを赦す。
「許す」は、何かをすることを認める、許可すること。
だそうです!つーことはあれだ。
自分に対して、酷いことをしたことを許可してはならん!と思うので
「許してはいけない」が「赦していこう」と
こういうことになりますね。うん。
なかなか難しいんだけど、神様が与えてくださった能力の一つに
「忘却」というのがあります。
歳を重ねてくると、これがどんどんじわじわ進行してきて
本当に忘れっぽくなってくるけども
これって、いついつまでも覚えていたらしんどいからなのかもな、なんて
そんな風に思ったりする昨今。うまいこと「忘却」に任せて
いい感じに記憶が薄れてきた、からのー、赦そうじゃないの。と
こんな方法でいいんじゃないだろうか。
怒りの炎が燃え盛ってる時は無理にその炎を消そうともがく必要はないけど
時が経ち、その炎も小さくなって
胸にしこりを残してるだけな感じになった時
改めて思い出して、心の中で裁こうとしたり、ムカついたりせず
なるっだけ、赦していこう。そうしよう。なのです。
うまく赦すことが出来て、楽になりますように。ボクも、あなたも。平安!
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