どもども、こんばんわ。ボクです。
少し前にSNSで見かけた誰かのポストで
自らを無宗教だと言ったあと
「信じる者は救われる」なんて、そんなわけねーだろ!
だったかな?
信じれば救われてりゃ世話ねーよ!
だったかな?
何しろ、そのような意見を言ってる人を見かけてから
ボクはにわかに心を痛めていて
その方のことを思い、気持ちもわかるし
信じても救われなかった経験から
その言葉が出ていることと承知しながら
その方に、神のみ救いがありますようにと祈ってるのだけども
数年前から聖書通読にチャレンジし
数年かかって聖書通読を完遂する中で
実際、教会に通うようになって1年半が経たんとしてる現在に
自分はどう思うのかについて、記しておこうと思って。
確かに、酷い劣悪な環境に置かれている人や
凄惨な事件に巻き込まれた人やご家族などは
先に書いた方のような気持ちになると思う。それは当然。
ただ、そんな中でも「心の救い」「拠り所」みたいなものが
あるのとないのとでは全然違うんじゃないか?と
そう思ってるのが今の自分の意見。
辛い気持ちや悲しい気持ちや苦しい状況などを
嘆き悲しみ、怒り、絶望している時に
それをぶつける先があるのとないのとでは違う、と。
長いながーい聖書の中で
ボクが一番好きなのは「ヨブ記」です。
何故ヨブ記が好きかと言うと
まず、ヨブ記とは簡単に言うとこんな感じで
旧約聖書のヨブ記は、ヨブという人物の物語です。ヨブは非常に信仰深く正直な人で、神から使わされたサタンによる試練に耐えることになります。最初は裕福で幸せな生活を送っていたヨブですが、突然家族や財産を失い、さらに身体にも酷い病気が重くのしかかります。体中が酷いデキモノでただれ、そんな目に合う中で、彼は友人たちと議論し、その中で苦しみの意味を問いかけます。最終的に、神はヨブに対して語り、彼の信仰と堅持を称え、再び祝福を与えます。この物語は苦難と信仰の試練、そして神の不可思議な計画を探るものとして知られています。
ChatGPTに簡単にまとめてもらったものに少し加筆したものだけど
そりゃもう、何も悪いこと1つしていないヨブなのに
これでもかこれでもかとサタンに不幸を浴びせかけられ
家族も財も何もかも失い、自身は体中が酷いデキモノでただれ
猛烈な苦しみの中にさらされて
その上、友人たちに、こんな目に合うのは悪いことをなにかしたんだろう?と
詰め寄られまでするのだけども
自身の潔白を訴え続けて、神様に何故!?と問いかけ続けます。
そしていよいよ、神様が現れて
ヨブの真摯な姿勢と態度にお応えになられ
再び、祝福を与えて、総てを元通りにするどころか2倍にして
ヨブをお救いになる。というような話なんだけれども
ボクが感銘を受けているのは
耐えに耐えたら、2倍の祝福を得た、というところではなくて
酷い酷い、これ以上ないくらい酷い目に合う中で
その辛さ、悲しみ、苦しみを訴える先がある。
神様にそれをぶつけることができる事自体に意味があると感じるから。
ボク自身、統合失調症を抱え
それを救う処方箋の薬を飲みながら
どうにかこうにか平和な毎日を送れているけれども
頭の中ではすぐにパニックを起こしたり
幻聴が聞こえたり、幻臭がしたり
ときには、抑うつ症状が出てベッドでのたうち回ったりするけれど
そんな時に、ボクは
とにかく「神様助けて!神様助けてください!」と祈り続けます。
この、祈る先があること。神様という存在が自分にあること。
これ自体が、感謝であると思ってるのです。
助けて!と、言えない、言う人がいないことで
人はどんどん辛い状況を悪化させます。心が潰れていきます。
押しつぶされていくのです。
神様を見たことがなかろうがなんだろうが
自分という存在と、神様がつながっている。というのが
何の不思議もなく、普通に当たり前のこととして前提にある。
これが、信仰なんじゃないかな、と。
で、今のように、神様と繋がっているというのが前提になかった頃
それでも、自分なりの神様ってのがあった時期
(それは幼少期から教会に通うようになるまでの長い間)
辛い時は、神様を罵ったり、文句を言ったりしていました。
過去のブログにもそれはしっかりと残ってたり。
ボクは、つらい目に合ってる時
神様に文句を言ったり、神様を罵ることで
たくさんの苦労や苦難を乗り切ってきたんだよな、という経験から
文句だったり、罵ったり、であっても
矛先を「神様」にできてた時点で救われてたんだなと
そんなふうに思うのです。
今はもう、聖書のみ言葉が(まだまだだけど)身体に滲みていて
すっかり、神様の存在を受け入れきっていて
神様を罵ったりはしないけれど
その代わり、祈ったり、頼ったり、問いかけたりできるようになって
そのことが、どれだけ自分の救いになってるか
身を持って毎日、毎時間、いつ何時も、感謝しきりなのです。
「信じる者は救われる」というのは
信じさえすれば、何事も叶えてもらえる。というような意味ではなくて
神の存在を心底信じ切れば、苦難の時に聞いてもらえる。
嘆きや悲しみや怒りを受け止めてくださる方をゲットできる。と
そんな感じなんじゃないかなーと思うのです。
ボクがこうなるのには、実に長い年月がかかったし
あらゆるミラクルがあって、御縁があって、勢いやタイミングがあって
また、うわー!と瞳孔が開くような聖霊の働きっていう奇跡を
2度3度味わったりもしていて
もしかするとそれは、自分の思い込みとか単なる偶然とか
あるいは、自分の病気の症状の一環だったかもだけど
ボク的には、確かに、聖霊の働きに導かれて
うわーーーー!@@ となった、そんな瞬間があったのです。
ままま、そこまで言うと、頭のおかしいカルト野郎みたいな
そんな感じになっちゃうかもだけど
とにかくボクが言いたいことは
長い人生の中で、辛いこと、悲しいこと、苦しいことは必ずある。
これらがある以上神様などいない。ではなくて
辛いこと、悲しいこと、苦しいことに見舞われた時に
「神様!」と祈ったり頼ったりすがったり罵ったり文句言ったり
そんなふうにできる。この事自体が、み救いである。と
それが、信仰なのだ、と思っている。と
そういう事をいいたいのでした。
とは言え、このボクの意見はキリスト教的に
正しいか間違ってるかまでは責任持てないけれど
ボクは、今、そう思ってるよ、そして救われてるよ、という話でした。
コレをここまで読んでくださったあなたのことも
神様はよーく見てくださってる。本当です。
苦しい時も、病める時も、辛い時も、悲しい時も
こんな目に合わせやがって!と言っても
受け止めて、それでも見守ってくださる神様がね。
誰よりも、頼りになる、心の拠り所。それが神様。
いつも、心に愛を。神様を。アーメン。
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