クリスチャンはLGBTQであってはならないのか?

LGBTQ
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どうもどうも、こんにちわ、ボクです。

今日は、自分が通い始めて13回目の日曜礼拝
& 聖書輪読会 &「信徒の友」を読む会に出席してきました。

礼拝も聖書輪読会もいつものようにつつがなく進み終わり
「信徒の友」を読む会では、参加者が一人ひとり
読み終えてからの感想を述べなくてはならず
今日は「創造の多様性」というテーマのところだったのだけども
そこで、LGBTQについても触れられていて

創世記に「男と女に創造された」と書かれているから
LGBTQなど背徳的だ!と目くじらを立てるクリスチャンもいるが
それは本末転倒なのではないか、と書かれていて
みなさんの感想も、そこら辺に触れられていましたので

さらっと、ボクは「自分自身がノンバイナリーというLGBTQなのだ」
という話から入り、前は「自分は男だ!」と
頑張っていてかえって大変だったりしたこともあるけれど
今は、神様に頂いたこの体、女の体ごと愛するべきではないかという
そういう思いに至り、心持ちはどうあれ
社会人としても、暮らしぶりも、体に沿って暮らしつつも
「男性でもない、女性でもない自分」を受け入れて
今は心も落ち着いて生きれるようになりましたと
サラッと意見を述べましたところ

「うむうむうむうむ・・・」と皆さん。
受け入れてもらえたかな?それとも話流されたかな?とよくわからない感じで
けれども、拒絶や拒否感をあらわにされたりすることなく
会は進んでいき、みなさんの意見を聞き
LGBTQに対して大らかな気持ち、受け入れの姿勢でいらっしゃることがわかりました。

信徒の友においても

歴然と存在するLGBTQが「男と女」という表彰の内実、と解するほうが自然。なにしろ被造物の多様なあり方という文脈で語られているのですから、また逆方向から見るなら、男と女の基、神なる「我々」はLGBTQのような多様性を包含していて、人間はそんな神の「似姿」だという見通しもありえましょう。

と書かれていて、少し前まではLGBTQはキリスト教の信仰に反するという理由で
教会に足を踏み入れることも禁じられていたけれど
今は、そうではなくなってきているのだな、と感じました。

ただ、ボクの記憶によれば、旧約聖書に
男は女を愛するように男を愛してはならない。というような記述があったように思うけれど
ヨナタンがダビデをとてもとても深く愛し、口づけをする場面や
キリストを示すためではあったけれども、ユダがキリストに口づけをする場面もあるし
まだ旧約聖書を読んでるところで
これからも出てくるかもしれないけれども
他にもちょいちょい、男と男、女と女、あるいは性を超えた人間愛を唱えていたりもするし
先に引用した、信徒の友にもあるように
何より神様は、決めつけず、多様性を受け入れ
広く別け隔てなく共に愛せよとおっしゃってるのだ

そう、ボクは思っているので、LGBTQであっても良い。と思うのです。

ボクはまだ、つい今年から、教会に通い始めたばかりで
洗礼も受けていないし、ただの人でしかなくて
クリスチャンともいい難いかもしれないけど
自分の通う教会の、牧師先生や、教会員のみなさんが
LGBTQも受け入れますよ、という雰囲気だったことが嬉しかったのでした。

さて、来週は、春の遠足だそうです。
迷っていたけれど、自分も参加の方向で考えています。
皆さんの中で、自分はいわゆる「モブ」だけど、熱心に誘ってくださったので
とても嬉しくて、お受けすることにしたのでした。

行くと決めたら楽しみなのです。(ΦωΦ)フフフ…

そして今日は、母の日ということで
牧師先生から、カーネーションをいただき、また、生生姜をいただきました。
葉っぱまでついてるやつ。味噌とか付けて食べるやつです。
夜は、はま寿司にお持ち帰り注文をしているので
それを取りに行き、娘が送ってくれたビールと共に
美味しいお寿司を頂く予定。母の日おめでとう。
ばーばである母に感謝、母である自分にも感謝、母となった娘にも感謝。

気持ち良い、好い母の日になりそうです。
みなさんも、好い母の日をお過ごしくださいませ。

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