思考の狂いと極まりすぎることについて。

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みなさん快活に毎日をお過ごしのことと思います。
ボクは相変わらず脳天気に日々をやり過ごしています。

実に罰当たりな毎日です。

が、それしかできないからやってるのだよ。
とかなんとか言って自分を慰めている次第。

さて、突然だけども
自分がPTSDを発端とする神経質症になってから学んだことについて
綴ってみようかなと思います。

急激にPTSDの症状が現れて所謂「急性期」にあった頃
納得の行く治療をしてくれる医者に出会えなかったこともあり
ボクはあらゆる本やネット上の情報を頼りに
また、Huluに頼ったりしながら
その「急性期の地獄の沙汰」をなんとか乗り越えました。

その時に読んだ本の中の1つがこれ。「森田療法」に関する本です。


ボクの持ってるバージョンは装丁が違うものだけども
この本でかなり自分の陥っている状況がはっきりしたし
それと同時に、これって自分だけの話じゃないな?と強く思ったりしました。

人はみな、ある程度の不安や不満や葛藤を感じるのは当たり前のことで
それらがちょいと極まると恐怖心が湧いてくる、これも当たり前。

元気で正常なときにはそれらの対処もうまく出来て
不安があっても、とにかく日々のやらねばならぬことをやる。
不満があっても、とにかく日々のやらねばならぬことをやる。
葛藤があっても、とにかく日々のやらねばならぬことをやる。

その問題以外の「日々のやらねばならぬこと」はいくらでもありますから
それをちゃんとやりつつ、不安や不満や葛藤を抱きながら
どうどう・・・と自分をいなしつつだったり
ちゃんと向き合って話し合いしたり改善策に出てみたりするわけで
これはとても当たり前のことです。

その、当たり前ができなくなるのが「神経質症」というもので
不安や不満や葛藤や恐怖に勝てないのです。取り込まれてしまう。

ボクの場合は、人を信用出来ない。自分のことも信用出来ない。

自分が生命の危機的状況にあるときに
すぐそばにいた同僚に救われなかった、見て見ぬふりをされたショックから
PTSDに陥ったからなんですけども
以来「自分は救われない」という思いが取れません。

救われないのはなぜか?と考え始めてから
急速に狂って行ったのだと思います。

救われないのは不潔だからではないか?
救われないのは男じゃないからではないか?
救われないのはブサイクだからではないか?
救われないのはちびだからではないか?
救われないのはいけ好かない人間だからではないか?
誰から見てもいけ好かない自分は
そもそも生きている価値などないのではないか?

こういうような思いにがんじがらめになっていき
風呂場で自分を赤剥けするほど擦りまくるのが止められなくなったり
シャンプー一本使い切るほど髪を洗い続けてみたり
歯磨きをし始めるやいなや止まらなくなったり
手洗いを何時間もやり続けてみたり
何時間も姿見で自分を見ては泣いてみたり
台所が汚くて絶望して何時間も立ちすくんでみたり

あらゆるものが怖くなって
絶叫して卒倒する発作が出るようになったり
何があったわけでもなく号泣して止まらなくなったり
まさに狂っている状態だったわけだけれども
その時の自分の内部葛藤の最中に気づいたことがあります。

「何やってんだ?自分?」と
自分を冷静に見ているもうひとりの自分がいる。

思考をその冷静な方の自分にシフトすると
先に書いたような、自分が救われない理由という考えが
「自分の考えていること」と思ってるな、というのがわかったのです。

このニュアンス、わかるでしょうか。
あらゆる人が自分を嫌うに決まっていると思い込んでいる自分。

なんとなれば不潔でありブサイクであり男ではないために
そもそも小さい頃からいけ好かない人間であったために
何もうまくできっこないと思い込んでいる。
何もうまくできっこないくせに態度だけでかくて嫌われる自分。
しかしながら、物事は何でも考え方、捉え方次第といいます。

ボクにはいいところもいくらかはあって
思ってるほどちびでもなければブサイクでもなく
そもそも男ではないから嫌われるというのはおかしい。

うまくできないこともあるけど、できることもある。
できることだけでもちゃんとやっていけばいいこと。

そういうようなことは「存分に」わかっていて、なお
自分は人に嫌われるだけの素質を十二分に持っていて
だから嫌われて救われないで殺される、生きてる価値が無い
それでも生きてしまっている以上
自分を嫌ってくる人は恐ろしい。きっとまたハメられる。

これらの思い込みを、冷静に見る自分も同時にここにいる感覚。

先に貼り付けた本の中でも神経質症になった人が
その自分の中の恐怖と葛藤と戦う姿が壮絶に描かれています。

「森田療法」で乗り切って寛解(かんかい)するのだけれど
それらをトータル的に考えて
ここまで病的に
不安や不満や葛藤や恐怖が極まっていない状態であっても
それらを発端として「取り乱す」ことは普通にあり
ボクがこの病気であったから、また
この本を読んで客観視できたから気づけた
自分の意志のようであり、本来の状態ではない思考の狂い
神経質症じゃなくても、普通にありえるということ。

例えば、恋人のふとした言葉が引っかかった途端
あらゆることがBADに見えてくる。
実は自分のことを大して好きではないのではないか?
そもそもこの恋愛は「良い恋愛」とはいえないのではないか?
あっ、またそんなことを言う・・・やはりダメなんじゃないか?
あ、こんなに食べる時音を立てる人だったっけ?汚い・・
あっまた・・・なんて。

職場でも同じようなことがあるかもしれません。

1つ気になり始めると、どんどん取り憑かれて取り乱していく。
取り乱しているなんて思いもしないで
どんどん思考と感覚がBADになっていく、そんな時があります。

そんな時は、発言や行動も迂闊になったりします。
だから、「ああやっぱり」と言いたくなるようなことを引き起こしたりする。

まったくまっすぐに何の衒いも疑いもなく
本来の状態ではない思考の狂いが起きていることに気づけない。

そしてこれは何もBADなだけではなくて

恋愛がスタートしたばかりの浮かれてる時は逆の感じになるよね。
世界は二人のために・・・じゃないけど
何もかもが素敵に見えたり、感謝の気持ちでいっぱいになって
あれもこれもが最高のタイミングで気分がよろしい。

でもそれも
言わば本来の状態ではない思考の狂いがそうさせてるともいえる。
ことは同じことなんじゃないのかな、と。
良い方向にある場合は良いのだけれど
BADな方向の場合はよろしくないと。
ただそれだけの違いであるのかもしれません。

ボクは今の病気になって、そのことに気づけたなと思っています。
可愛いはずの娘が憎らしくて仕方ない時もある。
愛しくて仕方ないはずの恋人が疑わしくなる時もある。
何もかもが面倒でしかたがない時もある。
そうこうしているうちに、なんやかんやうまくいかない。失敗が続く。
「ああやっぱりこれはダメだというサインだ」なんて思ったりする。

先ほどの本では「森田療法」が主軸になっているのだけれど
この「森田療法」は本当に優れた療法であり
療法というよりも、哲学だと思う。
何があっても、とにかく目的本位で生き暮らすということ。

目的本位、というのは、やらねばならぬことをやるということで
やらねばならぬこと淡々とこなし続けることで
BADであれ、幸せすぎであれ、極まることを避けることができる。

幸せならばいくら極まってもいいのではないか?というのは間違いで
幸せすぎても穴が空くもの。

あらゆることに不注意になったり不用意になったり
挙句、知らず知らずのうちに無神経な発言や態度をしてしまったり
人の繊細な悩みや苦しみに共感できなくなってしまったり・・・
不安や不満や葛藤や恐怖や、あるいは幸せ気分や恋の浮かれ気分も
思いのままに駄々漏れにさせるのではなく
不安なまま、不満なまま、幸せなまま、浮かれたまま
あるがままに、とにかく日々をきちんと暮らしていくこと。

そうすれば、そういった感情が極まりすぎることなく
「いい塩梅」でキープされるものなのかもしれません。

てなわけで、今年の目標は
良いことも悪いことも、無駄に極まらせすぎることなく
上手に「いい塩梅で」且つ、存分に堪能しようじゃんよ。という感じで。

病気になるのも悪いばかりではないね。
いろいろ見えてくることも多くありました。
せっかく見えてきたもの、大事にしたいと思いつつ。
みなさんも、日々を良い意味で淡々とより良くお過ごしくださいませ。

コメント

  1. うむ・・・今途中まで見ている状態だけども
    これは一体何・・・(汗)

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