夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった

Books
スポンサーリンク

これまでに何度もこの本を取り上げて
自分の思うところの『恋愛論』というのを語ってきたように思う。

夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった
(1975/01)
谷川 俊太郎

商品詳細を見る

人というものは、年齢や時の経過による環境の変化と共に
気分が変わったり、若干の趣味に変化が生じたりして
自分の中の『理論』みたいなのも変化したりしていくものだけれど
自分の『恋愛論』は、この本を手にして以降
大して変わらず同じだったりする。

この詩集のタイトルがそのまんま
『夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった』という詩であり
その詩は、この一文だけで完結している。

夜中に台所でふと話しかけたいと思う。
これを、愛している。という。
他に何の説明もいらない。
ずっとずっと長い間、その考えは変わらない。

そして・・・
そんな風に思う思いは
そう思った、その瞬間、その時に
その人の元にそよかぜみたいに、ふっと、届く・・・と
信じている。信じたい。
そういうことが『愛』のように思っている。

どちらかがふと、愛してるという思いにふと心を動かした瞬間
相手がふと、愛されているという思いにふと心が動く
そういうシンクロが起こるなら
その時、その恋がどのような状態であろうとも
誰が何と言おうとも
どんな風に見えようとも
その恋は、恋であり、愛だ。
そう思う。

思っても、相手に届かない時
それはある種のSignで
二人の心が繋がっていないSignであるように思う。

ボクは、自分の判断力や思いの強さだけでは
どうにもならないものがあるようだということに気づいている。
信じれば救われる。なんて嘘だ。
どんなに信じても、救われない時もあるし
どんなに願っても、叶わない願いもある。

それでボクは、新しいHNを「Sign」にした。

ボクは神を信仰するというような高尚な人間ではない。
それでも辛い時や苦しい時
見たこともない神様に願う。天使に願う。
いるかどうかもわからない神様とか天使は
願えば、祈れば、応えてくれるというものではなく
彼らが与えようとしているものを
こちらが受け取るかどうか。という話のように思う。


そう、ふと思った時に
相手が、そして自分が、その愛に気づけるかどうか、というのと同じに。


そんな奇跡のシンクロが起こるなら
そのこと自体が言わば『神の計らい』であり
『神からのSignを受け取ったということ』なんじゃないか。
そんな風に思うのだ。

故意に、わざわざ、思いを込めて願う、というのではなく
ふと、頭に浮かんできたりするもの。
願うことも本物だろうが
その、ふと、頭に浮かんできた思い、胸に抱いた思いは
その瞬間、とてもとても大きく、とてもとても真実であるように思う。

心に魂から欲している人がいて
そのことに応える準備が『実は』整ってる人
二人が揃わないと、シンクロは起きない。
それが『神の計らい』なのだと思う。

自分は、自分の欲望や願望から来る願いの成就より
その『神からの計らい』に注意していこうと決めたのだ。

もっと言えば
そんな感じで『神の計らい』がないものは成就などされない。
この考え方は、神を信仰してるということと同義かもしれないけれど
なにはともあれ・・・
神の、あるいは天使の、あるいは宇宙の
指し示すように、なるようにしか、ならないものなんだろうと
そう、腹をくくることに決めた。
ボクは、徹底的に『流れに任せる』そう決めた。

ボクがふと
夜中に台所で思った遠く離れたあの人の枕元
ボクの起こした小さなそよかぜが
そっとあの人の鼻をくすぐりますように。

そしてあの人が
鼻をもぞもぞっと、させたりしますように。
そんなシンクロが、実は起こっていたりしますように・・・。

コメント

タイトルとURLをコピーしました