不安や恐怖を克服することについて。

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(画像・イヴ・サン=ローラン)

春先に神経質症を発症させてから
ずっと思うようにならない自分に驚かせられながら
向き合うしか選択肢がないので向き合っている。
日々そうやって、生きている。
神経質症は、所謂ノイローゼ。

ノイローゼというのが具体的にどんなものかはわからなくても
なんかヤバイ状態になってる人のことだというのは
みんなわかると思う。

画像貼り付けたイヴ・サン=ローラン氏も
実に長い間、深刻なノイローゼ状態であったという。
同胞は匂いで感じる。みたいなとこかわかんないけど
顔見りゃ何となくわかるよね、というような気もしたり。

そんなわけで
このところ時間をかけて以下のような本を読んでいる。

森田療法というのは簡単に言うと
森田正馬という方が発案・実践し
多くの神経質症患者を実質的な形で救った治療法のことで
基本的に神経質症に効果があるとされているものだけれど

読み進めていくうちに、神経質症患者だけでなく
多くの悩める人々の
より良き人生のための訓であると感じるようになった。

治療法というよりも
基本概念にあることはこの世の真理であって
その療法を知るということは
哲学者の哲学理論・思想を学んでいるような感じになる。

一気に読まず
少しづつ読み進める形をとって
読んだ分のことを時間をかけて咀嚼して
体に沁み込ませるようにしている。

この作業自体が実はとても苦しいのだけれど
それは何故苦しいのかというと
先にも書いたように
治療法というよりも哲学思想だからだと思う。

賢者の示す思想というのは往々にして
簡単に行くものではない。
そもそも簡単にできるようなら、困ってないし悩んでいない。
無論、病的な状況までに自分の元々の資質を悪化させることもない。

今朝、自分は泣きながら目覚めた。
こういうようなことは
発症以後、結構あることなので特にびっくりもしないし
悲観もしないし大事とも思わなくなってるのだが
今日ふと自分の頭をもたげたのは
自分は多くの苦しみや寂しさや恐怖に慣れてしまっている。ということだった。

森田療法で良く使用される動詞で『はからう』という言葉がある。
真面目すぎる性質を持つ人などが
自分に降り掛かってくる数ある困難や障害に対して
辛い・悲しい・寂しい・痛い・苦しい・恐ろしいなどの
そういう状態にさらされれば当たり前に感じるであろう感情の一切を
気合や捉え方如何で断ち切り
平気になろう、強くなろう、乗り切ろうと
頑張る、はからう。
この、強くあろう、かっこよくあろう、正しくあろうとするがための
はからいの総てが知らず知らずのうちに
みるみる自分の首を絞めるようになっていく。

事実ボクは、幼少の頃から多く見舞われた数々の不遇に対し
自己防衛本能も手伝って
はからいにはからいまくって生きてきた。

結果、おおよそのことは何でも一人でこなせる
強い人、というのになることに成功していた。と思う。

けれどそうしていくことで
正常の範囲内のみではからうこととし
主に感情を優先させて生きる人々と自分の間に
知らず知らずのうちに
大きな大きなギャップができた、と思う。

正常の範囲内だけではからい
あとは自分の感情を優先させるということは
今となって思うのには、猛烈に重要な事である。
しかし自分はこれを知らずうちに大いに超えていた。

正常の範囲内だけではからい
あとは自分の感情も優先させるというラインを。
自分のできる範囲を完全に見誤っていた。
そして、発症した。

このことに長らく気づけなかった要因としては
はからい自体はとても正しく立派なことのようにみえることにある。

Twitterなどで
毎日毎日、一度ならずと見かける
美辞麗句・心に響く名言の数々。
このようなことは皆大好きだ。無論、自分も大好きだ。
実際とても立派で正しいことばかりであるし
実際とても心に響くし
それらが例えば多大なる功績を残した
成功者の残したセリフとなれば尚更に大いに素晴らしく響き渡る。

そのような輝かしい功績を残した人々は
厳しく自分を律して
自分を叱咤激励して
多くの苦難を乗り越え、打ち勝ち
功績を残すばかりでなく、自分の人生の成功者になっている。
・・・・ように見える。

自分は小さい頃から多くの本を読み
テレビで見る正義の味方や不幸を耐え忍んで幸せになるヒロインや
数ある艱難辛苦に立ち向かい苦難を乗り越える勇者や
素敵な暮らしを実践して
粋なマナーをさり気なくこなす紳士淑女を
キラキラと目を輝かせて恋焦がれた。

反吐が出そうなくらい低俗で低次元の
酷い暮らしの中に生まれ育っていながら
自分さえしっかりしていれば
正義の味方、スーパーヒーローとなり
艱難辛苦を物ともせず
素敵な笑顔を携えて生きる立派なオトナになれるものと信じていた。
そして、結構それらの実践はうまくいっていた、と思う。

自分の感情を
自分なりにうまくコントロールして
一時的にワーワー騒ぎはすることはあれど
結果的には、帳尻を合わせてきた。
そういうようなことで乗り越え帳尻を合わせてきたという経験は
自分の自負となっていったし自信にもなっていたと思う。

しかし発症後
自分の思うように体が行かない。
徹底的に自分の意志に対抗しまくる我が体。

自分の体であるのに
自分の意志の通りに動くことを全力で阻止・拒否する。

多くの書籍を読み
多くの音楽を聞き
多くの映画やドラマを見
それらを通じて実にたくさんの魂に触れ
感じ、考え、咀嚼し、実践し続ける中で
必要十分域を超えて
「おりこうさん」になりすぎてしまったのらしき自分の脳味噌の
いいようにさせてなるものかと、体が訴えているかの如し。

素晴らしく響き渡る成功者のセリフや名言。
その成功までの生き様。
強くたくましく生き抜いてきた総ての軌跡。
それらを教訓にと準えば準うほど
お前は、そんなに立派じゃないよと
そんなに立派なことがやれる器じゃないんだよと
体がボクに訴え続ける。
お前にはあの反吐が出そうなところで生まれ育った
お前の領域ってもんがあるんだよと
あそこがお似合いなんだよと
そう訴えているかのようで。

これは、自己憐憫で
ネガティヴに捉えて悲観しているのではない。
事実として自分の領域ということなのだからと開き直ろうというのでもない。

ぶっちぎれながらも
未だにボクはちゃんと思えている。
自分なりのスーパーヒーローにはなれるはずと。
ただそのやり方やさじ加減を
大いにしくったのらしい、ということを言いたいのだ。
立派な人になろうと上を目指すことは、確かに良いこと。
それこそが自分の成長を促すことであるから。

ただその時に
自分の感情を殺しすぎてはならないのだということを
ボクはもっともっと深く腹に落とさなくてはならないらしい。
頭でわかってる、程度ではダメだ。
そんな程度では体が許してはくれない。

頭でわかっていて
調子も出てきた気がするし落ち着いてきてるしと
以前普通にやれていたことをやろうとした途端
驚くほどのタイミングで発作を起こす。
動悸・息切れ・めまい・頭痛・腰痛・肩こり・全身倦怠感
手足の震え・食欲不振・腹部膨満感・下痢・便秘・胃のムカつき・嘔吐
我慢できない過度の眠気・無感動・悪心・寒気・多汗・パニック・・・
なんの具合の悪さかと
大きな病院に行ってすべての項目調べに調べて出る結果は
若干重めの鉄欠乏性貧血と、若干のホルモンバランスの乱れのみ。

すなわち、身体医学的には健康そのものなのである。
これはもう、体の反乱であるとしかいいようがなく
薬などでのアプローチも無駄。
ただのその場しのぎ、ごまかしにしかならない。
善き言葉には善い魂(霊)が宿るという。
確かにその通りなのだろう。
しかしそれらを優先し、実践しようと努力し続けた結果はどうだ?

自分が今、これほどまでにとことん
思うようにならない我が身と向き合って思うのは
辛い・悲しい・寂しい・痛い・苦しい・恐ろしいというような
感じて当然であろう大事な感情を
みすみす軽んじてはならないということ。
善くありたい強くありたいと思えば思うほどに
そう感じる自分を律して
感情を押し殺していくということは危険なこと。

先に大きく書いた
自分は多くの苦しみや寂しさや恐怖に慣れてしまっている。というこれは
とてもとても深刻な良くないこと。

例えば
殴られたり刃物を向けられてもボクは動じない。
これ本当に実際に動じない。
動じないので、逆に怖がられてしまって
ボコボコにされて意識不明の重体で病院に運び込まれたことがある。

刃物を突きつけられても動じないがために
お前はどうしていつも余裕なんだよ!といって
刃物を向けてきたその人自身が泣き崩れて大きく傷つけてしまったこともある。
実際切りつけられて大怪我をしても
病院に行ったり警察に行ったりなどせず
平常通りの平常心で笑って自分で対処して治していき
それを見て、どうしてお前は人をそこまでコケにしてくれるんだと言われたこともある。

理不尽でひどい仕打ちを
辛い酷いというようなことをする人達に
理路整然と真顔で正論を叩きつけて恥をかかせ嫌われ続けてきた。
或いは笑顔でやり過ごすことが気に食わないと、更に嫌われ憎まれ疎まれてきた。

愛する人や仲間たちに
アナタのようにはできないと愛想つかされ続けてきた。
無理を言うなよ、そんなのできっこないじゃないかと。
アナタみたいにみんなできやしないことに気づくべきだと捨て台詞を残して
多くの人がボクの元を去っていった。

ネットでは何故か割りと
自分の感情を包み隠さず吐露できるので
吐露したいがままに吐露できているほうで
『そういうとこまで言うもんじゃない』とか言われたことも少なくないけれど
リアルでは、そんな具合で
小さな頃から恐怖や不安をはからうことで乗り切ってきたことが
いざ、という瞬間の対処法に出てしまうため
正しい感情を表現できず
多くの人を悩ませ、傷つけて、またそれ以上に自分も傷つけてきた。

体が正しく感じている
苦しさ、寂しさ、切なさ、恐ろしさ、痛さ、辛さなどの総ては
決して良かれと思って軽率に乗り越えたりするもんじゃない。
それは乗り越えてるのではない。
ただ麻痺させてるだけだ。

見苦しいからと
人に迷惑をかけるからと
言ったってしょうのないことだからと
感情を横にやってしまってはいけない。

痛いなら痛い。
怖いなら怖い。
苦しいなら苦しい。
悲しいなら悲しい。
寂しいなら寂しい。
辛いなら辛い。
これらの感情は大事にしなくてはならない。
消してはいけない。なかったことのようにしてはいけない。
と、自分の体が、ボクに、訴え続けている。

総てのネガティヴな感情を
包み隠さず出していたら秩序も糞もあったもんじゃなく
酷いことになっちまうじゃない。と思うと思うが
そこは大丈夫。
人は大抵、そこまで邪悪じゃないから
否が応でも『見えざる手』が働いて、酷いことにはならない。
ボクらには羞恥心というのがある。
コレだって、ボクらの感情を司っている重大なシステム。

感情に従うにしても、それらがちゃんとバランスを取ろうとする。自然に。
まあ・・ボクの場合はそれを強く働かせすぎて
感情が我慢ならん!と爆発しっぱなし状態になっていて
手が付けられなくなってるわけだけど。

なんにせよとにかく
自分の体、自分の思うようになると思わないほうがいい。
いくら痩せようとあらゆる手段を講じても痩せないってのと同じ。
こんどこそ続けようと思った日記が3日と持たないのと同じ。

そういうところで自分が思うのは
素敵な服やバッグを新調することが
自分へのご褒美じゃない。
リラックスさせて温泉なんかに浸かったりマッサージすることが
自分を癒やすということじゃない。
特別に豪華な食事を楽しむことなんかが
自分を甘やかすということじゃない。
美辞麗句・名言の数々を自分に都合よくあてがわない。
そんなものでは簡単に改善なんかされない。
気持ちが本質的にスッキリしたりするはずない。

もちろんそれらも大事だし、素敵なことに違いないけれど
ほんとうに体が求めてるのは
そういうようなことじゃない。きっと、たぶん。

ひとつひとつの感情を大事に向き合い
横に押しやったり、なかったコトにしたりしないこと。
感じたままに生きる。
怖いなら怖いままに、とにかく生き暮らす。
怖くない怖くない・・・と打ち消さない。
もう、ごまかさない。
見なかったことにしない。
感じなかったことにしない。
そういうようなことは乗り越えたということにはならない。
麻痺させてるだけだ。無視しているだけだ。
これが、自分を尊重する、というものの最たるものかもしれない。
そんな風に自分は思う。

ただ、とにかく、そういうようなことの実践は
酷く酷く難しいということ。これに尽きるのではあるけども。
森田療法の言わんとしているところは
そういうようなことなのだろう、と、今、思っている。

まだここ。
治療中というより、訓練中なのだ。

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