アイデンティティ確保のための他者とのコントラスト。

LGBTQ
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サイゼリヤのプリンがおいしいと
Twitterで言い続けておりましたところ
ちらほらとサイゼリヤのプリンチャレンジをしてくださる方がいて

どーもあれは
糖分の貴公子の名をほしいままにしているボクにとっては
この世のものとは思えないおいしさであるものの
甘さをそんなに強く求めない人にしてみたら
甘すぎるのらしいのであります。残念。

あんなに美味しいプリンはなかなかないと思うのに。

と、またどうでもいい話から入りましたが

えー、この度、ボクはハニーを失いました。
ええ、ええ。別れたのでございます。
それで大いに臥せっているのですけれども

つきましては

何故に臥せっているのか?ということを
書き綴ってみようかな、と。

まず、彼女がいなくなると
ボクがボクであるということが曖昧になります。

つまり、ボクを男であると強く思ってくれている人の不在により
ボクが男であるかどうかが曖昧になるということです。

この話を友人にしましたところ

自分が本当に男であるならば
認めてくれる人がいようがいまいが男じゃないのか?
君の「男である」というのはただの願望なのか?

と言うようなことを問われましたが

ボクの男であることが曖昧になるという話は
そういう次元の話ではありません。

例えば。

人というのは他者を通じて自己確認することで
アイデンティティを保っているものとされています。
つまり、ひとたび、周りの人たち全員から
「貴方のことは知りませんね」と家族も誰もかもから言われると
結構あっさりあっという間に、自分が誰なのかわからなくなり
自己を喪失するという実験の話があります。

人はみな、他者と自分との交流の如何によって
自分を「自分である」と定義できているってわけです。

ですから、ボクが言いたいことと
先の友人からの質問では次元が違うのだけれども
伝わりますでしょうか。

ボクがなんぼ「男だ」というても
他者に男扱いしてくれる人が一人もいない場合
ボクは男であるというアイデンティティを保つことが
非常に難しいことになるというこれは、もっともな話なのです。

それから

以前、noteというSNS(?)で
他者とのコントラストの話を綴りました。
そのノートと同じことを言わんとしてみると

人はみな、お父さんと呼んでくれる人がいてお父さんになり
先輩!と呼んでくれる人がいて先輩になり
先生!と呼んでくれる人がいて先生になるわけなんだけれども

それと同時に、例えば

お腹の大きい人がいたとして
そのそばに男性がいて仲良く会話しているのを見た場合
妊婦さんだな?と思った後に
その男性を「父親であろう」と見当をつけたりします。

実態は、ただ太っていただけであり
且つ、ただの友人だったりする・・・というようなケースもある。

小さな子供が女性と手を繋いで歩いていたら
これまた「お母さんと子供だな」と見当をつける。

実態は・・・わかんないですよね。

しかしながら、我々は
二人のコントラストによって役割の見当をつけたりします。
半ば決めつけてしまうことすらあるでしょう。

そこを踏まえて

ボクが一人で「男だ」というているより
ボクのそばに彼女がいて「男だ」と言うている方が
ずっと「男だ」の効力が増すってものです。

それではなにかい。
自分の自己確認のために恋人を欲するってのかい?
そんな邪な考え方で人を求めるなんてとんでもない!

言いたいことはごもっとも。

しかしながら、アイデンティティに関わることですから
それはとてもとても重大、且つ、重要なことです。

自分を自分であると示してくれる人
自分が自分であることを良しとしてくれる人に対し
ありがたい、愛しい、恋しい、という気持ちが芽生え
大事にしたい、楽しませたい、喜ばせたいと考えるようになり

相手を大切に扱うようになる・・・と

これが恋愛の本性ではないか?とすら思うのです。

恋愛だけに限らず
人はみな、そのようなことを無意識に全部踏まえて
人と人との関係性を定義し
自分の居場所、アイデンティティを保ち
また、他者のそれを確認しているはずなのです。

とまあ、そんな持論がありまして
それでこう、臥せって参っているわけです。

彼女を失うということは
自分を失うことと同義であり、甚だ辛い。

しかしながら、辛いけれども、自分で選んだことでもあります。
受け入れていくしかないし
自分のアイデンティティは自分で何とかするしかありません。

そう、人が軽々と言うて放つ
「自分は自分、男であると言ったら男である」と
強い心を持っていればなんてことないのではないか?

というこれであります。が。

そんな簡単に強い心が持ててりゃ世話ない。のであります。

故にですね。

ボクという人間は女体であるけれども男である。
このことを、改めてしっかりと肝に銘じて
ボクのことを見てくださると幸いです。
接してくださると幸いです。

ボクは女体でありますし
その他もろもろ、ボロボロのところでありますが
男として、なかなかにいい男であるはず。と、思っています。

ただ自分で思うだけでは弱い。心許ない。故に
皆さんにもそう思ってもらえるように
今後も精進していきたいと思います。


そして今、2023年4月23日です。

今はもう、自分が男だと思われようが、女だと思われようが
あまり気にならなくなりました。
気張って「男だー!」と声を荒らげたくなることもすっかりなくなり
見た目通りの、女で(も)いいっす。という感じになってきました。

この記事を書いてから7年も経っていて
LGBT及びジェンダーに対する社会の向きもずいぶん変わって
TikTokやYoutubeなどにも
トランスジェンダー男性が「元女です」と普通に配信していて
そして人気があったりもします。かっこいいしね。ほんと。

自分の心が男であることは
ここにも記しているように、それを認めてくれるパートナーがいない場合
自分で強く認めていかないとバランスが保てなくなり
「男である」ということを見た目的に誇示していかねば
どうにもならなくなってくるので
ボクはそこらへんがうまくできないため、手放したのです。

それよりも、生まれ持ったこの顔と体をありのままに大切にし
「より良く年令を重ねる」ことに重きをおいて
どっからどうみても女である、という状態になっています。

て、そんなことはどうでもよくて

彼女と別れて7年・・・未だに彼女が忘れられずにいます。
自分の男としてのアイデンティティを保つための
コントラストとして彼女を好きだったのではないのです。

彼女を愛し、彼女もまたボクを愛してくれて
その派生として、コントラストが生まれてたのは事実だけど
そんなこたーどーでもいいです。

ボクは彼女が好きだったし、今でも大好きです。

多分このまま、彼女のことが忘れられないまま
生きて行くんだろうなあと受け止めています。
彼女はきっと、彼女なりの幸せをつかんで
今頃幸せになっていると、信じています。

今でも、空に向かって名前を呼んだり
名前をぽそっとつぶやいたり
いつまで経っても未練タラタラですが、これがボクです。

正直なところ、彼女に会いたくてたまりません。
彼女の子どもたちにも。
ずっとずっと7年間、そう思わない日はありません。
大好きでした。大好きです。

元気でいてくれるといいな、と。心から。

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