許すということの難しさ。

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自分は幼少時、そこそこ劣悪な環境下にいて
それはただ貧乏であるとか言うことではなく
(だってたぶん当時は貧乏の家は普通にいっぱいあった)
見合い結婚だった母と父の折り合いの悪さの中で
偉大な存在であったであろう祖父が闘病のすえ癌で亡くなり
それを期に離婚してボクを、夜にひとりぼっちで家に置き(当時まだ3歳弱)
母は所謂、水商売というのにつきながら
生計を立てんとしていたわけだけども
あまりに幼すぎたボクは
夜通し毎日一人で広い家に一人というので変調をきたして
一人ではまずいということになってからは
母の友人知人親戚などをたらい回しにされていたのだけれども
その先々で待ち受けていたのは
各種虐待の数々でしかなかったのであって
とは言え、ほとんどは記憶が無いのだけれど
時折、現実と間違えそうになるくらいリアルな
フラッシュバックがあるとこを見ると
相応の虐待は受けていたのだと思うのだけれど
その間、母はどこで何をしていたのかまったく知らず
時折会いに来る母のことを楽しみにしていたようないないような。
 

何を急にそんな不幸のひっくり返しをやってるかというと
つい昨日、いよいよボクは怒りが爆発してしまい
パニック発作までには至らなかったものの
それ相当の極度の抑うつ症状に見舞われて
ちょいとあぶない夜を過ごしていたからで
それというのも、やはり起爆剤は母であったことから
もう一度改めて振り返ってみようと。

親戚や見知らぬお宅をたらい回しにされていたながらも
幸せの暮らしの時期というのがあり
それは決して裕福ではなく
なんなら非常に貧乏で不便な生活であったけれど
子供ながらに本当に信頼できる
ボクにまったく危害を加えることのない数少ない大人であったところの
祖母と暮らした短い期間だけが、今の自分を支えていて
ボクの『良い所』や『理念・流儀』みたいなものの形成は
まず間違いなく祖母との暮らしの中に形成されたもので
それがなかったら今頃どうなってたかわからないのだけれど
そんな、貧しいながらも幸せに暮らしていた自分を
母は連れ去っていくのであって
事情なんかわかりはしません。とにかく別のところに連れて行かれる。
そこにはもう一人のボクに危害を加えることのない数少ない大人である
上の叔父がいたのだけれども
彼も相当に病んでいたので(今思えば)
目の前でシンナーを吸って完全にキマった上に呑んだくれ
我が子を殺そうとしたりなどする鬼畜に変貌するのであって
ボクには果てしなく紳士な叔父であっても
呑むと人が変わってしまうのであって
そしてその妻というのは、ほんまもんの鬼畜でありましたので
(というてもそれも病理とは思うけれども)
満足に風呂も入れず、食事も取れずの毎日の中
それでもとにかくそこに預けられているものだから
とにかくそこで生きていたわけだけども
まあ・・・書き出せばきりがない
『よそんち』に預けられた際の自分の置かれた不平等な環境は
なんでそうなっていたのか?もわからず
詳しいことも未だまるっきりわからず
とにかく、母は不在で学校も転々とさせられていたのだけれど
それでも我が家の本家というのは立派な家系で
正月などに挨拶に行くなどすれば
そこそこ可愛がられたり欲しがられたり(!)する中で
お小遣いや、正月であればお年玉などもらうのだけど
それもすっかりまるっとそのまま母が持っていくのであり
そんなこんなの中ですから
母が迎えに来るのを本当に楽しみにしていたかというと
よくわからないのだけれど
ある日突然、再婚するからといって
『新しいお父さん』とやらとほぼ二人暮らしになってみたり
(夜はあの人いないもんだから。スナックやってて。)
そのうち結局離婚することになったのらしくて
意味不明の怪しげな喫茶店の裏の劣悪建物に間借りしてみたり
超田舎の国道沿いにある
コレまた謎のレストランの敷地内の小屋に間借りしてみたり
母もそら、懸命に生きていたのであろうけれども
一人でないならば他人に阻害される毎日
そうでなければ一人の暮らしというのをずっとずっと強いられていて
中学の時もまんまと一人暮らしで
時折いつの間にか置いておかれる1000円は
本当に「たまに」であって
それでも自分はなんとか食べて、なんとか生きて、毎日学校にも行き
そんな暮らしの中、当時、酷い借金取りのチンピラ的な人などが
始終うちに来ていたのだけれど
『親を出せごら~!』などと凄まれても
出して欲しいのは、居場所知りたいのは、こっちの方であるために
まるっきりそのまま『こっちが知りたいんじゃごら~!』などと
全力で立ち向かっておりましたら
何故かそのチンピラのほうが優しくしてくれるなどし始め
たまに1000円くれたりしたのだけれども
思えば・・・チンピラのおっちゃんのほうが
”よほど” ボクの面倒を見てくれていた気すらするほどで
まあ、それくらい気の毒な環境であったのだけれども
それでもボクは頑張って市内で一番の高校にも合格し
返済義務のない奨学金のテストにも合格して
明るい未来を思い描いたり描かなかったりしていたのだけれど
まあ、奨学金も綺麗に使いきる母であり
ボクは必死でバイトをかけ持ちながら学費も払い
日々の生活費も稼ぐなどしながら
(家にもちょいちょいお金を入れたりもしていた)
高校生らしい青春をエンジョイすることも諦めず
果敢な姿勢で生きていたわけだけれども
辛くなかったかといえば嘘であり
合格した大学も学費がないということで
働きながら行けるという大学に変更して
一万円ただ一枚と、ボストンバッグ抱えて
文字通り『夜汽車に乗って』故郷を旅立ったりして
やっと自分で生きていける!という気持ちだけが嬉しく
それだけが希望で、あれこれ何もかも自分でやってきて
結婚もした、出産もした、離婚もしたし
東京に行き働いてみたりもしたし
恋もたくさんしたし、怒涛の人生だったように思うけれど
他の友人と比べても良いことなどあるわけがないので
ただひたすら『こんなことで収まるはずがない』と自分を信じて
ただもう本当に、ただ生きてきたのだけれど
30になった時
自分は非常に大きな決心をして
娘を一人で産み育てる決意をして
その時も・・・ボクを追って静岡まで来ていた母と下の叔父は
所謂完全ニートであったので
どん腹抱えながら、昼も夜も働いて
出産費用を作り、産後の赤ん坊のためのしつらえもして
とにかく自分の、自分の家族を
男にも頼らず、母や親戚にも頼らず
とにかく自分で作り上げてやる!という一心だったのであって
たくさんの間違いや判断の誤りもあったとは思えど
とにかく、今の今まで懸命にやってきたのであって
元気に働けていた時にも
ちょいちょい母からのお金の無心などもあったり
下の叔父や祖母が亡くなった際にも葬式を出したりして
借金は返せども返せども新たに生まれて無くならず
正直、やってられねー!と思いながら
他にやる人がいないもんだからやっていたのであり
途中で、諦めきれなかった通信制の大学の勉強も始めたり
それでも『こんなことで収まるはずがない』と自分を信じて
そうして必死で、気持ちだけは気高く持って生きていて。
そんな中、40を過ぎた頃から
あまりといえばあまりにも
追いつかせようにも追いつくことができない事態に見舞われ始め
じわじわとボクの『やれること』が減っていき
いよいよ一昨年の夏にPTSD発症を期に
あらゆる心身の不具合が噴出。
そして今に至っているわけだけども
いよいよ働けない状態になって二年ですから
本気の本気の貧困状態にあります。
収入がないのですから、貧困の極みであります。
しかしながら、そんな中でも
非常に大きな決意を持って産んだ娘は成長していまして
中学では不登校にもなりました。
けれどもなんとか高校受験も受けさせて受かりもしました。
が、たったの16日通っただけで辞めると言い出して
そらもう大変な騒ぎでした。
ようやく、今度は母の助けも借りつつで
(何つったって自分には病気のせいでできることがあまりにも最小限)
娘は正式に高校をやめ、バイトをしながら
アパートに独立するなどという
齢15歳にして、無謀であり、何より、
学校に通わせたいというボクの懸命の金策も無駄になり
何ともいえない残念さの中ではあるけれど
なんとかやっと、それはそれで娘の望む道
それは恐らく安定の道が見えてきたところではあるけど
いつ病気が良くなって
いつ社会復帰ができるのかの見通しなど立たない中で
貧困の極みの生活でありますから
かなり辛抱して暮らしています。かなりかなり、です。
そこに持ってきて
母は、孫可愛さに何でも買ってやります。
何でもお金が足りないといえば
出来る範囲でホイホイ出してやる。
これは、ボクが今そうできないところであるから
娘の親としてはありがたいことで、助かることで、嬉しいこと。
ただ今月は、やっと念願のジェンダー外来での受診ができるということで
遠く大阪まで、外出困難症を抱えてはいるが
なんとかかんとか策を練って行こうとしている月で
それこそ、更なる金銭的辛抱をしての決行であるから
あらゆる不安の中で、一人不安になり過ぎないようにしようと
どうでもいいことをやって気を紛らせてみたりして
懸命に平常心を保っていたのだけれど
そこに無神経な母からの一本の電話で見事に崩れて。
母は、娘に冷蔵庫を買ってやると自慢気に話してきた。
毎月のアパート代も半分出してやっているという上に。
ボクがこれまで、どんなに貧していても
そんな大きなものを買ってくれたことはなかった。
アパート代を少し出してやるということなどなかった。
ボクの夢への一歩となったであろう奨学金も全て使い尽くし
そのうえボクから幾度と無く金の無心をし
ただ一人で子を産むという困難な中ですら
ボクに生活費を作ることを強いていた人が
ボクが貧に貧して、病の中で孤独の毎日の中
黙って平常心を必死に保とうとしてるところに。
そうやって、ずっとずっとボクは
なんのために、誰のために生きてきたのかわからずままに
たまに母がボクにも少しお金を都合してくれたり
食事に連れ出してくれたり
PCが壊れた時に安いPCを買ってくれたりもしたけれど
そのたびに『かーちゃんはずるい』等と娘に言われ
何がどう、どんな風にずるいのか。
ボクはこれまで生きてきて、どれだけあの人に搾取され続けてきたか。
あの人達は、あまりにもボクを軽んじている。
ボクは今、自分で情けないほどに病んでいて
熱が出たり骨が折れていたり
そんな風ではないがためにわかりづらいだろうけれども
嫌になるくらい病んでいて
好きで病んでいるわけでもなくて
こんなになるまで頑張ってきたボクであると思うのに
ボクは・・・ボクは・・・。
生きている理由がわからない。
ボクは元気に働いて、あの人達を食わせるだけの人で
それができない場合においては必要がないのらしいと感じて
誰にも愚痴らずただひたすらに辛抱して
元気になったらまた働くという、これだけを望まれているわけで
そうして、酷い抑うつ症状がでて
昨日は一人で悶絶していた夜であったよ、と。
ああ言う夜は、自分で自分を殺しかねないので良くない。
しかしながら
朝になったら
さすがになにか思うところがあったのらしき娘が
手作りのチョコカップケーキを多量に『かーちゃん用だよ』と言って
焼きまくっておいて行ってくれたので
なんとか平常心を取り戻すことはできたけれど
娘が羨ましすぎて憎いと感じているのか
母がただひたすらに憎いのか、よくわからない。
娘はあまりにも可愛い自分の娘で
彼女がいるから何とか頑張ってきたような自分であったし
母のことも、自分がこうなってしまってから以後は
すっかり老いてしまっているにも関わらず
懸命に働き続け、ちょいちょい家計を助けてもくれたり
動けない自分の足になってもくれたりしていて
とてもとてもありがたいと思い
40を過ぎてなお、親の厄介になっている自分の
不甲斐なさを思い辛くもなれど
ずっと助けがほしい時に見捨てられ続け
更には搾取され続けた自分としては
これから、この人はこのように償おうとしているのだと思うことにして
憎い気持ち、悔しい気持ちも「許す」ということに変えようとしてきた。
けれどもボクは、許せてなんかいないのらしい。そう、気づいた。
ボクは学びたかった。今でも学びたい。
どこか遠くに行って、自分らしい人生を歩みたかった。自分の足で。
誰にも邪魔されず、誰にも問題を持ち込まれず
自分のケツ持ちだけすれば良いという人生を歩きたかった。
ボクが本当に、ボクらしさを活かして生きれるであろうフィールドは
どうしていつもこんなにも遠く遠くに行くばかりで近くならないのだろう。
貧困というのは、簡単に語れるものではない。
様々な要因や状況や、それまでの流れがあって、このようになっている。
よほどの額の金がドーンと入り
一気に環境の手入れをできるという感じにならない限り
端金では焼け石に水にしかならない。
石川啄木の『一握の砂』を読んで号泣が止まらなくなる。
人生は、いつも、なんて理不尽。
 

コメント

  1. ウチの母ちゃんも負けずにウザいです。
    今更償ってもらってもウザいとしか思えない。
    償いたいというキモチを持ってくれただけでも許してあげようかなぁなんて上から目線で思ってても
    それは絶妙なタイミングで
    してやったのよ攻撃が始まり
    ああ、許してあげなくて
    よかった…
    って思ってる自分。
    あと、あれ。あれもウザい。そしてずるい。
    あれというのは
    周りの親戚知人。あの頃は子供で母ちゃんがそれでも好きで、それでも母ちゃんに悪い印象とか周りに持ってほしくなかったから、子供ながら母ちゃんをかばったり、助けがほしかったのは私なのに黙って辛抱したり、決して母ちゃんの悪口は言わなかったのに。今になってもその周りの人達は母ちゃんはえらいんだと。苦労してあんたを育てたのになんで今もっと母ちゃんを大事にしてあげないのか、と。
    母ちゃんが一番ずるい。周りの人と接してもいないのに、久しぶりに会ってこんな事言われるって事は、その周りの人達に明らかに私の悪口を言ってるんでしょう。この歳になって親不孝だとか言われると
    ウザいです。
    ずるいです。

  2. 往々にして、母と娘というのは
    何かと問題を抱えるものだという話もあるんだけども
    問題の質にもよるという感じもするわけで
    且つ、自分らの親世代付近の女性特有の
    (ある種、共通項であるらしきところの)図々しさとか
    無神経さみたいなのもある気がしたりしてて
    思うに、あの世代の女性は
    ああいう図太さ、小ずるさでもなければ
    やっていかれないみたいな時代背景でもあったのかなとか
    そんなことも考えるわけだけども
    にしても・・・疲れるよね・・・どっと・・・(汗)

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