図書館で借りてきた数冊の中に、この本があります。
それで、読んでいます。
文字がとても多く感じるので
なかなか進みが悪いんだけども、読んでいます。
この表紙に書かれている文字やタイトルだけで
内容のざっくりはわかると思うんだけども
「ネット世間」との距離のとり方の件は
考え始めてから随分経っていて
その都度、自分なりに対策めいたことを言ってみたりもして
他のあらゆる、ちょいとトライしてみたりはすれど
なかなかうまく行かないことの中でも最たるものの一つ。
自分は、読んでる最中に
超愛用のKindleが壊れたこともあり
病気が発症してからというもの
無理をしないことを徹底してるのもあって
ベッドに逃げ込んでいることが多いのだけれども
ベッドに逃げ込んでいる際の一番のお友達がKindleで
Kindleで読める電子書籍(以下Kindle本)を始め
ネットラジオのアプリ、リラックス音のアプリ、今日の運勢のアプリ
計算機のアプリ、辞書アプリ、図鑑アプリ、英語教材系アプリ
そして、Twitterクライアントアプリ、メールアプリなど
(意外にもゲームアプリは常用的に使ってはいない)
一台で何役もこなす頼りになるやつだったわけだけども
これらが、さあ使えない!となってからの
ボクの混乱ぶりというのが半端じゃ無い。
コミュニケーションツールとしてのインターネットはまあよくて
(PC前に来れば、このようにやれますし)
とにかくラジオや本や辞書や図鑑や教材が
まるっきり一気に失くなったのと同じで困り果てていて。
思うに・・・本にしろ辞書にしろ図鑑にしろラジオにしろ
現物ってのは昔からあるわけで
なんなら今だってひと通り持ってもいる。
CDだって聞ききれないくらい持ってるのだから
音楽が聞きたいなら、コンポで流せばいいじゃあないのと
そのほうが音もいいんだし、と
そんな風に考えるわけだけども、まー苦しい。
この本は、インターネットを介しての
人や世界とのつながりから
つながりすぎてないか?というようなことを言っているのだけれど
自分は今、どこかに暮らす見知らぬ誰かとか
遠いお国のニュースや情報と繋がりにくくなったこととか
自分のあれこれを配信しにくくなったこととか
そゆことを嘆いて困り果てているのではなくて
単純に、様々な便利機能が
失くなったことを嘆いているのであって
そっちがもうね。気が気でならないもんだから
なっかなか、この本の内容に気持ちが集中できないんだけど
それでも、ベットに潜伏している間は
実際ネット環境がない状態になってはいるので
やはりちと不便といえば不便。
ボクがネットで発言したり活動しなくても
世の中はなんにも困らなくて
普通に流れて行くということを知っているし
あまりにも長く「顔出し」をしないと
少なからず気がかりに思ってくれる人もいるのだろうけど
それでもまあ・・・
それも大したことはないだろうということも知っていて
ただ問題は「自分の側にあるんだな」ということは感づいてて。
誰かに求められてるわけでは、ないわけです。
いやいや求めていますよと云うてくださる方もいるかもしんないけども
まあ、本当に本当にボクの存在の発信がないと
死んでしまうというような人は、いないわけです。
しかし自分は発信したいものというのがあり
その発信を通じて、できるだけ沢山の人と繋がりたいと考えていて
且つ、その繋がりは有効なものであって欲しいと考えていて
有効なものとは何かというと
「ありのままの自分」なんていうののアレコレを周知して
且つ、それを受け止めてもらった上での繋がりを指していて
「ありのままの自分」を知り認め受け入れてもらった上でなら
自分は”通って行く”と信じていたりするんだろうと思う。
というのも
自分は様々な形の生きづらさを抱えていて
それが思い込みなのか、逃げなのかわかんないけども
とにかく自分は”特別に”生きづらさが強い人だと思ってもいるようで
それはひとえに
リアル社会で40年余生きてきての経験則からきていて
とにかく「ありのままの自分」とやらを
受け入れてもらうのにはとてもとても骨が折れるし
受け入れてもらうところに行く前に
こっぴどくやられまくって傷だらけになってしまうものだから
予め「ありのままの自分」とやらを晒した上で
それをある程度よしとしてくれた人という篩(ふるい)をかけて
こっぴどく傷だらけにされることを避けようというもの。
また、今となっては
容易に外にも出られない状態になってしまっていて
実質的な引きこもりになっているから尚更に
ネットなどを通じて「ここにいるよー!生きてるよー!」と
始終やっていなければ不安なのである。
昔から自分は「生きていたことの証」について考えてきたし
ちょいちょい語っても来たと思う。
どんなに虫けらの如き自分であろうとも
それでも人として生まれてきているからには
何らかの証を残したいという思いがあって
それで自分はずっとネットの中でアレコレやってきた。
本人が大したことないもんだから
大した証も残せないまま現在に至ってるのだけど
それでも、Webの大海原に小さな小瓶は投げているから
その小瓶は存在しているのだから、というような
その小さな事自体が救いになってるのかもしれなくて。
で、この本は
まだまだ序盤のほうを読んでるに過ぎなくて
まだまだ語るに及ばないことはわかっているのだけど
恐らく、今ボクがつらつら書いたような
「割と最低限と思われる自己発信」への危機感ではなくて
もうちょっと違うネット依存、繋がり依存の話が書いてある。
主にSNSの話なんだろうかなーという感じ。(今のところ)
Twitterでのツイートが、とても多い自分だけれど
それも先に書いたように小瓶を投げてる感覚で
Twitterの小瓶はまあ・・・投げなきゃ投げないでも良くて
人の小瓶もまあ・・読めなきゃ読めないでも良くて
とは言え、触りだすとずっとやってしまうんだけども
それでもまあ、やれなきゃやらないでも良くて。
けれどもどうも見ていると
そうでもない人がとても多いようにみえる。
所謂「ツイ廃」という類なのだろうけれども。
facebook事情は離れてから久しいので分からない。
他のSNSも登録したまま放置なのでわからない。
noteという、ちょいと毛色の違ったSNSは
その毛色の違い故に、使い続けてはいるけれど「note廃」ではない。
なきゃないでまあいい。
SNSではないけれど
長らく本当に本気でどっぷり浸かりきっていたところの
セカンドライフという仮想空間は
アレ、ゲームじゃなくてコミュニケーションツールであり
しかも本当のあの世界の住人として
人格を持ち、その人格で持って活動してしまうことから
今は「廃」ではなくなったものの
思い出も深く(ていうか深すぎ)そこでであった友人各位も
SNS等で繋がった人とは比べ物にならないくらいの深さと重さがあり
一応、稼働可能なアカウントは保持していて
且つ、友人のはからいに甘んじて「住人」の位置は確保してある。
でもほとんどオンしないから
いざ、すっかり失くなったとしてもまあ、困らない。
前だったら酷く狼狽しただろうけど。
この、失くなったら酷く狼狽、というコレ。
コレが「廃」であるかどうかの
最重要ジャッジポイントなんだろうと思うわけで
そうなってくると自分は意外にも「ネット廃」じゃないように思うわけだけども
それでもいくらかは依存している自覚があって
では今現在どんな風に依存しているかというのを客観的に見ると
出会い系サイトなどは利用してないがしかし
結局のところ、出会いを求めている、パートナーを探してるんだろうと思う。
ボクのような状態であると
パートナー探しも危機感どころか鬼気迫る勢いがあって
がっついても仕方がないし
そもそもがっつきたくなる人もなかなかいないということもあって
しらっとドライな感じにしている(つもり)だけれど
実際のところ、切に願っている。切に求めている。
結局のところ
事の発端は違ったけれど
あのセカンドライフだって、パートナーがいてこそなんぼであったし
女体の男というものになってしまった自分は
あのように男体アバターでまず魂の接近を経る場合以外では
まず殆どネット社会であってもリアル社会であっても
自然な形でのパートナーとの出会いはない。
まったくないの域に近いほど、ない。
だからこそ、殆どインしなくなっていても
また、女体の男だと発覚した先に
ひどい仕打ちが待っていることがあるとしても
完全には捨てきれないのだと思う。
あそこくらいしかないのではないか、という思いが強くあるから。
何より、確かな成功体験があそこにはあるから。
いろいろと多くの問題を孕んでいるにしても。
ましてや今は外にも出ないので
ネットくらいやってないと
陸の孤島に住まうたった一人の原住民みたいな
そんな感じになってしまうわけで。
というような、切迫の中の最低限であって
どうかこっかして、パートナーさえ見つかれば
ネットは情報収集・検索・買い物だけになって
SNSからは自然に足が遠のくんじゃないかなーなんて思う。
そこで、皆さんはなんでSNSやってるの?とか思った。
マイノリティ的嗜好(或いは志向、或いは思考)を持ってるがゆえの
共通の仲間がほしいという方向や
今となっては、ビジネスを円滑にするのにも必須であるという方向や
そのビジネスであれなんであれ
「自分を世界に売っていこう」みたいなセルフ・ブランディング方向や
まあ・・・いろいろあるんだろうけれども。
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