Vフォー・ヴェンデッタ

Mental Health
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相変わらず、ココロの映画No.1の座から動かないこれ。

なんども各所で
この映画について、見るたびに書いてきたように思う。
きっとこのブログにも記事がある気がするけれど
振り返らないでおく。
何の事はない。また今日見たという話。

映画や音楽や本というのは
見るたびに、その時々によって
捉え方や感じ方が変わったりするものだけれど
この映画だけは変わらない。
何度見ても感じ方は変わらない。
ただその変わらぬ感じ方によって
自分の思いが更に深まっていくだけだ。

真の自由に対する思い。
社会という形態にどうしても存在してしまう不条理。
様々な格差に対する不服の思い。
力のない自分への残念感。

虫けら同然の自分にも
はっきりとした強く抱く理念というものはあって
それはいつもうまく表現しきれない。
言葉にうまく紡げたことなどない。

主人公のVは
いつまでもいつまでもボクの最高のヒーローだ。
何もかもが。

彼は恐らく非道な人体実験と火災によって
見た目も中身も所謂『クリーチャー』なのだろうけれど
ボクが、うんと前にこれを見たその瞬間から
彼に心酔しきったのは
無意識に、自分もまた『社会的クリーチャー』であると
そう、感じていたからだろうと思う。

何を正義とするのか。
何を自由というのか。
仮面をかぶり
体全体の一切を隠す衣服とマントを身にまとい
そうしていなければ自由に生きられなかったであろうVと
今の自分は殆どまるで同じだ。

今年は「アナと雪の女王」が大ヒットして
『ありのまま』という言葉が非常に広く横行したけれど
『ありのまま』ってなんだと思う?

ありのままで生き暮らすことを望むのはいい。
それを自由と呼ぶのもいい。

しかしボクは
ありのままに、思うままに行う言動の全ては
まずほとんど受け入れられないことばかりだった。
今でもそう。

ネットの世界では幾分
受け入れる姿勢の人が多くいるようにも見える。
それでもリアルの世界となると違う。

ネットの世界の人であっても
ボクから見たら『ネットの世界の人』だけれど
その人たちはみな、リアルに生きる自分と同じ人間で
それすなわち『リアルの人間』であり
リアルな立場に立ち返った時
リアルな現場にいる時に
ボクのような人を目の当たりにすると恐らく
ボクの思う・・・これまでにも見てきたようなことになる。

ボクもVのように
自分の見た目や振る舞いなどの『表面』を
何かしらで偽り、言動もそれに合わせて行かなければ
嫌われたり疎まれたり蔑まれたり迫害されたり
見下されたり適当に扱われたり
無視されたり・・・
良くても、扱いづらい出来物と同じになってしまう。

時折、とてもとてもよく接してくれる人も出てくるけれど
どの人も長くは続かない。
ボクが非常にゆがんでいるからだ。
これは単純に性格が悪いということではない。
ボクが『社会的クリーチャー』だからなのだろうと思う。

Vは明らかに悪い政治に絡む人々や
それらが作り上げた社会を憎んで
血の復讐を心に誓い、長い年月をかけて実行したけれど
ボクの怒り続けているもの憎み続けているものは
『明らかに悪い』とは、されていないものばかりで
しかも多くの人が普通に持ち合わせていて
それに対して多くは何の不思議もなく疑問も持たれず
あたり前のこと、正しいこととして通り続け
信じられ、護られてきたものだ。

ボクの理念や流儀の正しさを
はっきりと立証して実践して
それらがすっきりと真っ直ぐに通る日は来るのだろうか。

人知れず、『社会的クリーチャー』のままで
野垂れ死ぬしかないのだろうか。
最近は、そんなことばかり考えている。

Vのように強くなれれば。
Vのように大きく世界に一投を投じることができれば。
どんなにか素晴らしいだろうに。

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