学生時代に学校で教わりたかったこと

スポンサーリンク

長らくブログを上げていなかった。
上げていない間にも
そらもうアレコレあったわけだけども
いちいち覚えているわけもなく
ただ最近は
大阪まで診察に行っていたのを止めることになり
近隣の大きい専門医に通うことになったため
長らく投薬治療から遠のいていたのだけど
ほんの少し薬も飲むようになった。
まずは先生の言うことを聞くのが賢明。
 


さて、本題だけども
大人になってから・・・というか
社会に出て社会人として生きるようになってから
派手に時間が過ぎていて
成人式以降、四半世紀が経ってしまっているというような
大変な年寄りになりつつあるわけども
そんな中で
こういうことは学校で教わりたかったよ・・と
未だに思うことが多々あるので
ちょっとそれに関してしたためてみようと思う。
社会情勢や何やらが大きく変化していき
我々国民の意識も暮らしぶりも変化しているので
一概にいえないというのはあれども
そういうようなことは度外視でどんどん書いてみると
まず年金のことについての基礎的なことは
テストに出すくらいの勢いで教わりたかったと思うし
それも含めた税金に関することは
入試問題にしてもいいくらいの重要度ではないだろうかと。
これらは、簡単なところでは
ファイナンシャル・プランナーの資格を取ろうとすると
おのずとみっちりやるハメになるんだけども
そのような資格に縁のない仕事に就く人であっても
絶対的に全員関わってくるものなのであるから
きちんとやるべきだと思ったりしてる。
仕事に就かないという道を選んだ人にとっても重要だのに
知ってる人と知らない人とで
ものすごく差があるように思う。
それと、国民の権利として開かれているところの
あらゆる福祉についても細かく伝えてほしいもので
人は皆必ずしも順風満帆の人生を歩めるという保障はなく
元気に働いて暮らしていければ御の字で
福祉制度のことなど知らなくても生きていかれるわけだけども
病気や怪我や災難に見舞われた時
不幸が続いてどうにもできなくなった時に
制度のことを
公民の時間や政治経済で教わったような
ツルッとした感じではなく
きちんと深くケーススタディとディスカッションなどを踏まえた
「腹に落とす学び」をしていれば
不幸な連鎖の中で生じてしまう悲しい事件なども避けられるのではないか。
どうにもこうにもならない貧困格差なども
ある程度は避ける事ができるのではないか。
また、きちんと学んで、福祉の正しいあり方が周知され
みんなの心にリテラシーがきちんと形成されていれば
障害者やその他マイノリティや生活保護受給者を
身も蓋もないような差別視をしたり
ネットなどでの偏った情報を鵜呑みにして
ヘイトスピーチなどに傾倒したり
スティグマなどのひどい状態も生まれないのではないか。
それに加えて
我々が受けてきた「道徳」という授業のあり方は
今振り返ってみるに、あまり好ましくなかったようにも思っていて
それというのも
自分がこれまで生きてきて思うのは
「道徳」の時間に議題とされたことは正しくは
絶対的な答えなどなかったはずで
それだのに、こうするべきだよね?みたいなことばかりを
”決めて(決めつけて)” 教わってきたように思うから。
ある程度は、社会秩序を保つための倫理というものがあって
「そうあってくれなきゃ困る」という種のものもあるわけだけど
そうでないところまで総て”決めて(決めつけて)”きたのは
やはりよろしくなかったように思う。
あの「道徳」の時間に学ばせて欲しかったのは
先に上げた社会秩序を保つための倫理も当然のことながら
多様性を認め合い尊重していこうという姿勢から生まれるであろう
持ちつ持たれつの平和で安楽の世界を目指す心意気。
日本には宗教の時間がないので
もしかしたらこれも、ネックになってるのかもしれない。
世界には多くの宗教があり、思想があり
それを多くざっくりとでも
おおよその大きな宗教の思想の幾つかを学ぶことで
多様性も自動的に学ぶことになるし
「赦す(ゆるす)」ということの真意を
感覚的に身につけることができるように思う。
通り一遍等の綺麗事を学ばせるのは道徳ではなく
胸に浮かぶ良心をどう使うと良いだろうか。
胸に浮かぶ悪心をどう扱えばよいだろうか。
人は皆、どんな権利を有しているか。
その権利を、それぞれ守ってもらい守っていくためには
互いにどうしていくのが最善だろうか。
また、守れない時はどういう時だろうか。
学歴で人の大きさは測れないというけれど
自分が大学の通信教育で学んだことは
あたりまえだけれど、高校までに学ばなかったことで
「ああ、ここまで来てやっと、教えてほしいことを学べるんだな」と
そんなふうに思ったものでした。
しかもボクが進んだのは哲学科で
哲学科であったからこそ学べた分野だったように思うから
例えば・・・英文科とか、もっと技術的分野に進んでしまうと
きっと法学や哲学思想や経済学や社会学などは
やはり触れずに終わっているのだと思うし
なんというのか・・・。
義務教育の9年と高校の3年の12年では
到底教えきれないものなのだろうかなーと思ったりしていて。
それから最近少し思うのは
「本を読む」ということは思っている以上に大事で
これができている人とできない人とでは
脳みその働きも違えば
実生活における、あらゆる諸事の理解力や飲み込みにも深く関係してて
「直感的にわかる」というような分野に
大きな差異が出るのではないか?と思ったりもしてる。
脳科学とかに明るくないので
詳しいことは説明できないけれど
話が通りやすい人、というのがいて
それというのは多く、自分と馬が合う合わないであろうと
算段をつけてきたけれども
どうも、そればかりでもないような気がしてきてて。
馬の合う合わないの話は
趣味嗜好、思想、暮らしぶり、立ち位置などの違いから生まれるもので
合わんもんは合わん。という単純さなのだけど
そうでない部分で
馬が合わずとも、言ってることはわかる。とか
意見は大きく相違してはいるが、議論ができるというのが理想で
それができるとできないとでは
物凄い損失が生まれる可能性があると思う。
馬は合わないが、この人の言っていることはわかるな・・という人は
大抵、幼少時から多くの絵本や書籍を読んでいて
これは多ければ多いほどいいかというと
やはり多ければ多いほうがいいのではあるんだろうけど
なにかしらの「ボーダーライン」があるように感じてて
それを超えて読んでいる人であれば
おおよそ、暮らしの中の諸事にまつわる討論や議論の場で
どうにもこうにも話が通らんな・・・みたいにはならない感じがする。
もっと言えば
先に上げたようなリテラシーという部分においても
多くの本を読んでいれば
自ずと感覚的に身につくことも多いだろうし
本を読む、読解力を高めるということをしているうちに
自ずと脳の働きレベルで「直感的にわかる」が増えるようにも思う。
多くの問題を解かせるよりも
多くの課題図書を設けて
とにかく読め。読んだらなんか感じたことを書いてこい。
というような宿題を多く出すようにして
レポートを書くということを身につけさせるといいような気がする。
どんなに小さい頃からでも、である。
あおいそら、しろいくも・・・とかやっている
小学1年生の頃から
どんな風に感じましたか?
目をつむって思い描いてみましょう。他に何かありそうですか?
などなど、イマジネーションを育てるような課題を出すというか。
「読み・書き・そろばん」という方向のことに忙しく
そういうのをやってる暇もないのかもしれないけれど。
でも・・・少なくとも、因数分解解くより
イマジネーションを育てる「学問」のほうが
人格と個々の思想と道徳心をより良く伸ばす気がする。
とか何とか、こんなとこでブツブツ言ってたって
何もならんのだけどもね。
 

コメント

  1. 激しくお久しぷりんすですね!
    私も中退したけど短大で学んだ経営関連の事柄が今になってようやっと腑に落ちてきました。
    つって、もう会社員辞めるからあんまり関係ないけども。(苦笑)

  2. あらまー。おひさしプリンス。元気にしてた?
    いやいやいやいやいやいや。
    経営関連のことは、何事にも役立つと思う。
    て言うか、会社員やめるとなれば尚の事。
    ガッツリ学んだことって
    意外に多岐にわたって波及させることができて
    思考の広がりや深まりができてよござんすよ。
    ボクは今、そこいらへんを味わいかかってるとこで。
    何でもかんでも学びたい。知りたい。理解したい。
    そして活用して、なんかやりたいという方向に繋げて
    とりま実践!実践!とかやってると
    いついつまでも錆びない自分でいられるかもです。

タイトルとURLをコピーしました