身の程知らず。

Colum or News
スポンサーリンク

今日は「身の程」についてしたためようと思う。

まず
上を見ろ的な
向上心を保て的な
それらの感情やスタイルは
非常によしとされていると思う。

そしてまた自分も
非常に長い間、そのように信じ切っていたし
下を見るのではなく上を見て
上に上がることを考えて生きようみたいなとこあって

そうしていくうちに
知らず知らずに歪んでしまっていたな、と気づいたりしていて
ここ数年自分は
その歪みと戦ってる気がする。

あくまでも自分はこうだ、という話だけど
上を見て上に焦がれているうちに
結果的に流れとして
背伸びをしてみたり
痩せ我慢をしてみたり
不必要にかっこつけてみたり
おかしな見栄を張ってみたり
それだけに収まらず
おこがましいことには
すっかり自分の事は棚に上げて
人の事をジャッジしたりするようになってたな、と。

人は皆ある程度の処世術の中で
また自己防衛の意味でも
他人をジャッジして分類して
ある時は優劣つけるなどして優先順位を決め
関わって行く人を取捨選択していかなくてはならないのだけど
これがね。
知らず知らずのうちに
おまえ何様のつもりだよ。
みたいになっちゃってた気がしてならなくて。

向上心ってのを優先していくと
いつの間にか、自分も上の人気分でいたみたいというか
かといって下でもないと思いたいとこではあるけど
問題はその上だ下だのを決めている事がらね。

自分は少し前から、所謂セレブ的生活を送っている人の
何気ない言葉に違和感を感じるようになってて
本当にその方はセレブなのかもしれないし
言うてるだけかもしれないし
そこまで行くには相当な苦労されたのかもしれないしってとこなんだけど
でもなんだか妙に違和感感じてて。

まあ・・・ただ単に
今の自分が自己卑下の傾向が強くなってるからってだけかなと
そう思っていたのだけれど
なんだかそうばっかりでもないらしく。

身の丈、ということに関してずっと
思いを巡らせている自分なのだけど
自分の中で、ソウルレベルで胸が震える、心が動く事ってのは
やはり『自分にぴったりのもの』だからなんだよな、と
つと、気付いたりして。

どんなに素晴らしい言葉であっても
実際に・・そうだな・・

例えば
ニューヨーク在住です。なんて方が
どこそこの別荘から今日はつぶやいてます的なアレで
その別荘などの写真を記載したりで
プライベートビーチは快晴です。
などとやってもらっても
は・・・はあ・・・。となる。

そしてそのような風なライフスタイルでいる方々が・・・
そうだなあ・・・

例えば、とても素晴らしい人材であった一人であるところの
故・スティーヴ・ジョブス氏などの言葉があるでしょ。
うんもう、ほんとに素晴らしいことばかり。
何より彼を取り巻くエピソードのどれをとってもかっこいいし
起業家としての手腕やなんやらとかよりも前に
彼の一個人としての独特な魅力だとかね。
本当に素晴らしいでしょ。
自分も、相当彼の残した名言だとか
彼の功績やエピソードを読みあさったりしたけども

ある日、ほんとに、ふっと
は・・・はあ・・・。となった。

ジョブスだけでなく
もっともっとほんとにたくさんの著名人たちの半生や名言など
自分は本当そのような言葉達が大好きで
Twitterなどでも今だって
たくさんの『名言Bot』的なものをたくさんフォローしてるし
良い言葉には、良いソウルが宿ってるもんだと思ってもいるから
やはり素晴らしいのは間違いなと思うんだけども
自分はねえ。早い話がね。無理よ。

や、ネガティヴな意味ではなくて、真実として。実にいろんな意味で。
また自分みたいな種類の人間は
そっちじゃないな~みたいなとこが潜在意識下にある気がする。
で、それに徐々に気づいてきた、と。

思わず目を閉じてしまうほど
胸が震えて、心が動くものってのは
自分の場合は、ある一つの傾向があるように思って
それってほんとに『身の丈ライフ』に由来してると思う。

ゴージャスな服を着て
三ツ星ホテルのレストランなんかでパーティーに参列したり
会員制割烹旅館の会員だったり
そのような方々の言葉は、やっぱどうも響いてこない。

単純に拗ねてるだけかもだけど
『まあそらねえ。いい服着ていい車乗っていい家に住んでりゃねえ。はい。』
みたいな気分になるって言うか。

そんな感じになってきたところに
昨日、Tumblrで以下のような引用文が流れてきた。

“人に好かれて喜ぶっていうのが、ぼくにはよくわからないんだ。
人に好かれて嬉しかったことってあんまりないんだよ。
「自分が誰かを好き」っていうのは喜びだよ。

でも、好かれて喜ぶっていうのは、よくわからない。
自分が好きじゃなかったら、好かれることにはなんの意味もないからね。
思われるよりも思ったほうがいい、ってことだよ。

「日本人の自尊心」についてアンケートをとったら
アメリカと中国並みの自尊心の高さだっていう結果が出たそうで、ぼくは呆れたの。
自尊心っていうのは嫉妬に結びついてるものでロクなものじゃない。
自尊心ってのは、それを維持するために全生命を使うものだよ。

自分がよく見られたいとか、アイツは許せないとか
そうやって自分を高みに置いておきたい。
他国を攻めるのも自尊心だし
自尊心がいろいろと悪いことをやっているわけだ。

ドン・ファンっていう人は
人間は自尊心を維持するためにあらゆる力を使いすぎていて
自分を充実させる力がもう残ってない、だからそんなもの棄てちまいなって言うんだ。
自尊心を維持するのはヤメた方がいい。
だって、自分探しとか、イヤじゃない。なんか。

自分を探してるうちに、どうせ人にぶつかっちゃうんだから。

ほかにやることがあると自尊心に構っていられなくなるから
ほかに力を使うってことがわかればいいんじゃないかな。
普通に生きているなかでモノをつくっていくってことをしないと
自尊心しか力を使うところがなくなっちゃう。

モノをつくる、クリエイティブってのは
音楽とか絵とか思われがちだけれどね、そうじゃない。
モノをつくるっていうと、みんな「自分的」なものばかりつくるでしょ。
ぼく自身もそうだったから、それはよくわかる。

でも、自分が編み出したと思っていたリズムも、実は昔からあったもので
そのことがわかったときに、モノづくりっていうのは
何かが自分を通して過去から未来に通っていくだけだっていう風に感じたの。

結局のところ一番の衝動は楽しさなんだよ。
自分が楽しくやるためにそうやってる。
「ノッちゃうなあ」って感じ。そこに自分がいる。”

細野晴臣『分福茶釜』より

それでこれを読んだボクは、ああ!となったわけです。
自分の感じていた違和感の根源は、自尊心ってやつだったのか、と。

自尊心を保とうとするのは
一般的には向上心を強めることであるし
上流思考っての?そういうのの発奮にもなるのだろうから
いいこととされているんだけども
なるほどな~
そもそもの自分たるがわかってないのに
自尊心を大いに掲げて生きてたって、まあそら疲れるわなあ。と。

そしてそんな自分がどんなにいいこと言ったからとて
人の心に響くわけがない。届くわけがない。動かすわけがないわな、と。

自分は本当に情けなく恥ずかしいくらいに
身の程知らずで、自尊心を保つために、またその自尊心を
プライド、誇り、などと同義と大いに勘違いをしでかしたまま
言わんでいいこと吹いてきたし
行動もしてきたんだな~と思う。
正にかっこ悪いこと、ダサいことこの上なし。

でもまあ、それも
自己分析結果が低ければこその愚の骨頂なんだろうと思うけど。

ちょっとほんとにこれからは
もっとさらに『身の丈』を意識して
おこがましく人をかる簡単にジャッジして優劣つけたりせず
しかし自己防衛も必要であるから
そこらへんもうまいこと折り合いつけながら
自分の目線ラインで、まっすぐ前見ていきたいな、と。
そして自分なりのモノを作り上げていきたいな、と。

そんな風に思うのでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました