サラ、いつわりの祈り

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えっと。
これを見てから、少し経つのだけれども
母が超無作為に選んだものの一つで
微塵の前情報もなしに見たわけですが
一言でいうなれば
実に『身も蓋もない』どうしようもない映画でありまして

これは、見る人によっては
激しく嫌悪すると思うし
気分を害する人も少なくないのだと思う。

自分も見ていて
何度目を伏せたか分からないし
実に実に『痛い』映画だった。

前情報がなかったとは言え
あまりにも意味が分からないままに進んでいったし
何を描きたいのかもわからなかったし
ただまあ・・・
主役のサラが、ブッチギリ女で有名な
ニルヴァーナの故・カート・コバーンの元奥さんであるところの
コートニー・ラブに似ているもんだから
見たっていう感じで

実際・・・うんと前に見た
ラリー・フリント コレクターズ・エディション [DVD]
↑この映画の時の彼女と似ており(キャラ的にも)
まあそれはどうでもいいとして・・・

要は
酷いお母さんと、それに振り回される息子の話で。

その酷さたるやが
アメリカだけに、ハンパ無いのであって
当然パンクにロックにドラッグにセックスなんだけども
自分が最も忌み嫌うところの『児童虐待』も当然絡んでいて

自分は今、どん底的生活を送りながらも
セカンドライフのおかげで
魂のアイデンティティを保っておると言うような
ギリギリの中で
馬鹿みたいにやめてないのが
うんとうんと前に言うていたところの
プラン・ジャパンという団体への毎月の寄付で
はっきりいうて、まず自分ちの状態は
それどころではないのだと思うけれども

ここをやめたら
なんだか『いよいよだ』という気がしており
続けていたりするんだけれども
それはひとえに
自分自身が児童虐待の場に生き育ったこと。

そしてそれらの『場』
フィールド自体の空気を本当の意味で『知って』いるから。

人や場所が違えば
国政事情も時代も違えば
あらゆるスタイルがあるのだけれど
どれもコレも、髄は同じであると思っている。

普通に生きてきた人には分からない
独特の空気がある。
酷い空気・・・でも、自分はそれしか知らないので
あの空気こそが『生きてる空気』という気がすることすらある。

そして、この映画の中に正に、その空気があった。
この映画の救いと凄さは
とてもとても酷い有様の中に愛を描いているところ。

自分が・・・例えば
『トレイン・スポッティング』という映画を
『最も史上最低の映画』と思っているのは
救いがまるで感じられなかったからで
そこには愛がないと感じたからで
それなのに
あのようなどうしようもない世界に生きる若者を
スタイリッシュに描いていることが気持ち悪かった。

たぶんあれと同じくらいか
子どもが力いっぱい巻き込まれているだけに
もっと酷い有様なのだけれど
それでも、ここには愛があった。

どうしようもない
母親になる資格などないに等しいとしか見えない女と
その女の下に生まれてしまったカワイイ男の子。
酷い目に遭うし
酷いことばかり。本当に、本当に・・・。

けれども
サラは、息子のジェレマイアを魂レベルで愛しているし
また息子も母親を愛している。

の割に酷過ぎるから
わからないかもしれない。伝わらないかもしれない。
でも、自分にはわかる。
息子が母を無条件に受け入れ、母に染まり
酷い目に遭う様は、たまらないし
その子供の本能、順応するしかできない本能・・・。

それが正に『児童虐待』の場を形成しているのであろうから
なおさらに痛いのだけれど
この映画のサラには
息子を魂レベルで求めているという愛がある。
酷いけど・・・酷いんだけど・・・

愛などなく
ただひたすらに『虐待』しかない場も
自分はたくさん見ているし
事実、虐待の末に亡くなる子供は後を絶たない現実もある。

愛があれば
自分の子供をどうにでもしていいなんて思っちゃいないし
そんなことされたから
自分が大人になってもなお
おかしな生きづらさを抱えて苦しんでいるのだから
認めたくもなければ、良しとしたくない。

でも、これは・・・自分にとって
ある意味救いになったかもしれない。

どんなに酷い事になっていても
どんなに最低な暮らし、最低な人生であっても
力いっぱい歪んでいるけれども
母の愛は、魂レベルでは、正解だ。と思った。

我の母を憎む気持ちと恨む気持ち。

と同時に、子供として母を憎み切れない
矛盾のパラドックスの中で
母の愛がわからない
母は自分を微塵も愛していないかのような
我の母は自分をまるで欲していないかのような

それが、どんなに辛いことなのかは
きっと多くの人にはわからないのだろうけれど

『自分は誰にも愛されなくて当然である。』
と思うのに
十分すぎるほどの理由となる。

だって
お腹を痛めて
9ヶ月もの間のあの
大きなお腹で大変だった妊娠期間を経て
生み落してくれたであろう母親ですら
自分を愛していないのであるならば
他の誰も愛してくれなくても当然。と思う。
これは至極当たり前の流れだ。
誰にも理解されないし
自分でもわかっちゃいない。
何のために生まれてきたのか。
誰のために生まれてきたのか。

それで自分は
『この世のすべては必然』なんて嘘だと思うことにして
ただもうひたすらに
『そうなっているからそうなっているのにすぎなくて
そこにはなんの意味もない』
と思うことでケリをつけた。

それでもやっぱり諦めきれない何かがあって
自分はそれでも
母にすら愛されてなくて
大事に扱われたことなどもないような
どうでもいい人間だけれども
きっと誰かの役に立つものも持っているはず。

誰かを救うとか・・
誰かを喜ばせるとか・・
誰かを幸せにするとか・・
何らかの・・
ほんの少しかもしれなくても・・・
ちょっとくらいは役に立つくらいの能力は持っていると
そう思いたくて、そうできると信じて生きている。

そんな中で、今、自分はどん底で
そんな自分のそばに
どん底の40になった子供を必死で支えようとする
『あのひどい母親だった』老いた母がいる。

彼女の立場になってみれば
自分が若い頃身勝手にやってきたからとは言え
我が子が、こんな有様になっていることは
恐らくとても切なく、辛いことだろうと思う。

この映画の親子はまだまだ若く幼く
何もわからないままに
ただひたすらに『生きる』ことに没頭していて
その『生きること』のスタイルとして
どのようなスタイルが正しいのかがわかっていないのかもしれない。

そしてまた自分も
『生きることのスタイルの正しさの種類』なんてわかっていない。
だからやっぱり今でも台無しのままだ。
でも、愛はあるのらしい。
うちにも。

あんなにあんなに酷かったけれど、愛はあるのらしい。
そして、この映画の中に
自分と母との間の中の愛と同じ種類の愛を見た。
いい映画だとは言わない。
けれども、このような愛だって嘘じゃない。と思った。

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