家族という概念の件と性差問題の件。

House Keeping & Life
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さて、ボクです。
えー、ずっと書こうと思って書けずにいた件です。

いつだったかTwitterのbotのツイートで
心に引っかかるものがありました。
それは細かい言い回しまでは覚えていないけれど
4人家族か5人家族かなんかの中の一人が
養女なのらしくて
日々暗い顔をして「あたしだけ血が繋がってないのが辛い・・」と
そんなことを言うているもんだから
「でも、すごく当たり前のことを言うけど
その君のご両親は明らかに血縁関係でない他人だったんだよね」
みたいなことを言った瞬間に
その女の子が「!!」となってブレイクスルーが起き
一気にパーっと顔が明るくなった・・・みたいな話でね。

それ読んでボクもブレイクスルー起きたよね。
言われてみれば!!って言う。
そこでいろいろ考えた。
家族とはなにか?はてまた、人を信用するってのは?

よく小耳に挟んだりするところの
家族や夫婦の問題の渦中における台詞の中に
「夫婦といえども所詮他人・・」
というのがあるわけだけども
その言葉のニュアンスに、しれっと矛盾が混ざってる。

というのも
その台詞の前後には大抵
自分の実家の家族や兄弟の話が出ていがちで
つまり、実家であればこんな事にはなってない。というような
そう言うニュアンスが含まれているんだよね。
血が繋がっている家族だけが本当の家族的な。

ところが。
先の話から考えていくと
そんな血の繋がった確かな家族と思っている本元の
アナタのご両親は血が繋がっていませんよね。という話になるのであり
元からひっくり返ってしまう話となるわけです。

とは言え
ボク自身も良くこのニュアンス含んだ先の台詞みたいなことは
始終使うし、始終自分の思考の中の逃げ場になってる気がする。

確かに血は侮れないところが多々あって
DNAの凄さを目の当たりにすることも割と日常的にあるし
血液型診断とか占いなんかにおいても
かなりの精度を感じたりもするわけです。

でも・・・よーく考えてみると
血の云々よりも前に
「如何にそれまで関わってきたか」というのがやはり
無意識にかなり重要視されてるということなんじゃないかなと。

そこでこの映画を持ちだしてみるんだけども
これは「キッズ・オールライト」という所謂レズビアン映画です。

レズビアンカップルが二人の子どもと四人ぐらし。
その中で巻き起こる「普通の」諸問題について
淡々と描かれてるわけだけども
数々の賞を受賞してるらしいけど
ボク的にはあまりにも普通で、サラーっと流してた作品。

どう普通であるかというと
レズビアンカップルの家族だからこうなった、というのではないんだよね。
中高年期に差し掛かった長年連れ添った夫婦の普通の問題。

二人のママであるということですから
二人のシングルマザーということになりますんで
片親家庭がぶち当たっても何ら不思議のない普通の問題。

もう一人の親、お父さんって誰?お父さんはどんな人?
血の繋がりってなに?夫婦ってなに?家族ってなに?
性描写なども至って普通で
ちっとも美しく描かれたりなどしていないし
とにかく見事に淡々と描かれています。

ボクはきっとこれを手にとった時に
レズビアンカップルならではの「何か」を期待していたために
あまりにも普通だったので、少しくがっかりして
サラーっと流してしまったのは間違いないんだけども
今改めて振り返ってみるに
この映画は別口の結構大きいことを描いていた気がしてて。

血の繋がり云々も相当な作用があるのは間違いないけど
(そこら辺もきっちりくっきり描いてある)
何よりも兎にも角にも
「それまで如何に関わってきたか」ということと
「如何に認められてきたか」ということが重要ということ。

血の繋がりというのの他に
何かの絆とか縁の糸みたいなものが恐らくあって
何かとても許しがたいことが起きたりした時に
そこを必ずしも解決しなくても
解決しないなりに「うまいこと受け流していこう」というような
悪く言うと目をつむっていこうというような
良く言うとそれはそれとして受け入れていこうというような
それらって、なかなかに大変なことで
その大変なことをこなし続けてきた結果
家族になり得ているんだよね。みたいなところ。

そしてそれは
通常の家庭では見られないために可視化されないけれど
このように同性愛カップルとなった時に初めて見えてくる
性差による役割分担の妙というのも
実は割と関係ない話かもしんないよ、というところ。
この映画では両方ママだけども
より稼げる職に付いている方が
何となくお父さん的位置になっていて
あまり稼ぐのが得意ではないほうが
何となくお母さん的位置になっているのにまず気づく。

そしてそのお母さん的位置になっている方は
普通のご家庭の主婦の皆さんも多く悩みがちである問題を
同じように抱えていたりするわけ。

家族の中で金を生まない所謂「家事」をこなしている
自分の立ち位置ってなに?、みたいなところ。

家庭に経済効果をもたらしている方が
何となく強いという”あの感じ”に対する不服。

普通は、お父さんの位置にある人が明らかに男であるから
そういうもんだよ、みたいにスルーされてるのだけど
この映画を見ると、実はそうではないんだなということがよく分かる。
お父さんが男だから強いというわけではない。
家庭に経済効果をもたらしている方が強いってわけ。

そして、そういうことから強い側に回ってるほうが
なんとなく「お父さん」の立ち位置になっているという図式。
そしてその「お父さん」の立ち位置になっている方は
普通のご家庭のお父さん方の多くが悩みがちである問題を
同じように抱えていたりするわけだ。

家族を養っていかなくちゃならないというプレッシャー。
家庭内の問題を効率的に処理するべきみたいな立ち位置のプレッシャー。
「家族の長」としてのプライドと意地。
外で働いているので、職場での自分の責任と立ち位置の保持。
それらをキープするためのストレスなどなど。

つまり・・・夫婦間・家族間の中で問題になっているのは
実は、性差の問題では無いんだな、ということ。
これはものすごく大きなことではないんだろうか。

最近とみに
自分がまあ、Twitterなどで見ている情報が
所謂LGBTがらみが多めのこともあるんだろうけど
また、渋谷区の同性愛を認めよう的なものが成立したことなどもあり
そこにかぶせるように、フェミニズム運動も
まことしやかに盛り上がってきてる感じがする昨今。

しかしボクが思うに・・・。
真の「女性解放」というのを議題にしたがってる割には
本質を捉えておらず、なんなら本質に目が行ってない感じがする。

家事の役割分担だの少子化問題だの
保育園などの不足問題だの
そういうことに話が行きがちだけど、実はそこあんま関係ないよね。
ボクが思うのは次の二点。

  1. 男女の労働賃金の格差を”完全に”なくす。
  2. 「家の切り盛り」「家族の面倒を見る」などの家事を正当な労働とみなす。

これに尽きると思ってて。
女もまともに働きさえすれば
家族を十二分に養っていけるという労働市場を育てること。

そして
外に働きに出るということが苦手な人というのは
何も女性だけに特化しているわけではないというようなことは
とっくに薄々感づいているはずで
外に働きに出ることは苦手でも
家の切り盛りがうまく出来るとか、何とかそれならやれるという人は
男の中にもちゃんと存在していて
ただ、男がそれに従事しきれないのは
家の切り盛りや家族の面倒を見るという
所謂、家事の事柄全般に市民権が得られてないからでしょう?と。

それは何故かと言うと
先に言うたように「経済効果を生まない作業」とみなされてるから。
しかしみんな実はわかってるはず。
家庭がうまく回っていないと良くなりようがないということ。
そこをどうやって多くの人はカバーしているかというと
これまで長く日本に充満し続け当たり前のこととしてあったところの
「国民総中流家庭思想」だったりすると思ってて
物質的な豊かさの追求を実現させることによって
ぱっと見のわかりやすさで「良いお宅」を作れること。
そしてそれにみんな知らず知らず躍起になっていること。

物質的な豊かさで「良いお宅」を実現させるには
お金が欲しくなり、お金を稼いでくる人が強くなる。
そう言う思考の流れは、ずーーっと昔から強まる一方だったのだと思う。
「良いお宅」の定義は
必ずしも物質的な豊かさではないはずなのだけど
最新家電製品や、オサレな家や、ブランド志向の衣服などなどの
所謂「文化的な生活」というのをスタイル化させたもの。
ボクもうんとうんと長い間、それに固執してきた。
身の程知らずであったなーとつくづく。

より良い人生、より良い暮らしを求めるのは
非常に普通の当たり前の現代社会人としての欲求で
それを実現させるために躍起になっているわけだけど
その目指すところが身の丈に合っていないと
いくらお金があっても足りないということになるのは言わずもがな。

どんどん頑張って、アレもコレも手に入れてもなお
上っ面だけ整ってもなんだか空っぽの心。空っぽの家族。

信用できるような、できないような・・・と。
冒頭の話になってくるわけで。
本当は生き暮らしていくのに必要十分整っていさえすれば
あとは中身に注意を向けて
家族同士の交流、コミュニケーションを大事にしていくことや
頑張って買い揃えたあれこれを創意工夫して手入れをして
大事に使っていくこと、家庭になじませて「こならせる」こと。

それが、より良く生きると言うことであるはずだのに
例えば、懸命に家具家電や雑貨や日用品を駆使して
家、部屋、庭、子供達に気を配り、あれもこれも手入れして
より良く生きるというところに日々取り組んでいる主婦の
家事のがんばりよりも
外で稼いできたお父さんのお金で買う「最新家電」が軍を抜いて喜ばれる。
それらは買っただけでは何の役にも立たない。
上手に日々の生活の中で使いこなしていけばこその品だというのに。

これあたりまえだけど
しょうがないことなんだけど
そういうような小さなところからじわじわと
力関係が確定していき
それを何かしらの勘違いも相まって
夫婦間でより金を稼いでる方が偉いという図式が固まっていく。
このような図式は、レズビアンカップルの家庭であっても
この映画の中に確かに見られました。
きっとリアルの家庭でも同じに違いないと思われます。

それだのに、男女の問題とすり替えられているという事実が
ここに見えてくるってわけです。

男だろうが女だろうが
稼ぐのが得意な方が金を稼ぐ。
家の切り盛りの得意な方が家を切り盛りする。
家も金を稼ぐのも、まったく同等の労働であるという基本。

「家族」という小さな社会を存続させるために必要な
どちらもとても重要な労働であるということ。
結局のところ、多くの問題は
先にボクが挙げた2つが徹底されさえすれば
きっとうまく回っていくところなのではないかなと、そう思うのです。

男女の性差問題ではない。
血の繋がり云々でもない。
「家族」という小さな社会の形成の場において
「家族」という小さな社会の人同士の交流において
どのポジションについているか。
そのポジションは「家族」の中で権利を与えられているか。

どのポジションにあっても
その「家族」の中で、重要なのだと周知されているか。

それぞれの性格の特異性や相違性も踏まえた上で
「アナタは家族の中で大事な任務を担っています」というような
正当な権利と義務のバランスが整えられているか。

仮に、離れて暮らしていても、◯◯家の一員であるということは
支社にいる社員も同社員であるということと同じ。
そういうようなしっかりとした正当な権利と義務の付与があってこその
自分という人間の「ここに生きていてもいい感」に繋がり
自分という人間の「何かしら役立っている感」に繋がり
それが、より良く生きるという基本中の基本の欲求を
素直に何の衒いもなく胸に抱けて不思議がないという
安心・安楽の安定に繋がっていくのだと思う。

ボクはこのところずっと、本当にどうしようもなく
社会的にも個人的にも落ちぶれてしまっていてめちゃくちゃだけれど
血の繋がりや、所謂男女の性愛関係の延長線上にあるものに限らない
本質的且つ、真の安楽の場所、家族、というのを
もっと増やしていきたいなと考えてる。

ひとりひとりが生きていても良くて
ひとりひとりが何かしらの役に立っているという基本を
いちいち説明せずとも、日々感じていられる生活の実現を。

うまく書き綴れたかどうか自信はないけれど。
ボクは、なんとかして
きっとこのことをやり遂げようと思う。
例えどんなに時間がかかっても。挫けたり挫けなかったりしようとも。

コメント

  1. その通りだと思います。
    これを読み、家族という言葉自体を辞書や
    その他諸々でひいてみました。
    すると、家族とは社会生活を営む上で最小かつ
    最も基礎的な集団。
    というようなことがどれにも書いてあり、
    どこにも、法律上認められたのような記述が
    なく、むしろ法律上に関わるのは夫婦や親子で
    あって、家族そのものには法律上のくくりが
    ありませんでした。
    つまり、家族とは性別血縁など関係なくても
    作れるものだということ。
    個人を尊重しながら、思いやりの気持ちを持ち
    自分ができることをやり、お互い支え助け合い
    やってもらったことや共に暮らす日々に感謝の
    気持ちをもちながら暮らす。
    そんな家族がたくさんできたら、きっと世の中
    平和になるだろうなと思う。
    豊かさとは物質的ではなく心の在り方で
    心が豊かならば幸福も感じられる。
    そんな豊かな心を育むのは色々なものから
    得られるだろうけれど、1番は身近な家族の
    存在が大きいような気がして、心が安らげる
    そんな家族を作りたいなと日々思っています。
    実際自分の子供達にはどんなことにも感謝と
    思いやりの気持ちを持つ大切さを伝えていき
    たいと思います。
    内容と少しずれてしまったかもしれませんが
    読んで家族のあり方について色々と考えさせ
    られました。

  2. コメントどうもありがとう。
    >つまり、家族とは性別血縁など関係なくても
    >作れるものだということ。
    そそ、このことは結構見過ごされていることにひとつで
    結婚の件に関しても男女の別は特に問うていないし
    養子縁組などの手続きさえ取れば
    「法的に家族と見なす」というものであって
    血が繋がっていないことは家族ではないということにはならないし
    逆に血が繋がってるという部分からの拘束は特に
    法的には記されてもなかったりするんだよね。
    あくまでもそこら辺は
    民事上の話で取り扱う感じにはなってるので
    「通念上は・・・」というのはあるにしても
    法的拘束力はないわけです。
    これは、互いがそれぞれに相手に対し
    「まるで家族のように」思い合えるかという点に主軸があって
    血が繋がっていても、そのように思い合えなければ
    それは家族とは言いがたいものとなっても無理もないということと言えるんだよね。と。
    感謝の気持にしても思いやりの気持ちにしても
    無理強いすることでは身についたりしないので
    とにかく「身にしみて感じることの出来る環境を」ということになるのだろうなと思う。
    それは安心安楽の環境であるし
    どんな苦境が訪れて、嵐の最中であっても尚
    決して一人にはされっこないというような
    漠然とした、でも確実に心の支えとなる信頼あってこそ。
    うちの家族も通常概念で図ると相当家庭崩壊気味の家だけども
    それでも不思議と確固たる絆があって
    ボロボロなりにより添えてるということは
    これはとても有難いことなのだよなと思ったりもしてます。
    お互い、そういう「まるで家族のように」思い合える関係性を築いていきましょう。
    頑張りますようー。

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