ボク専用の地図。

スポンサーリンク

この画像は『くまのプーさん』の100エーカーの森の地図。
詳しいことは知らないままに
自分解釈で言うてしまうんだけど
これは恐らく『小さな男の子』が
頭の中で容易に把握できるだけの”最適な広さ”なのだと思う。
e99ceb8d.jpg
そしてボクが思うのには
『小さな男の子』ではなくなったって
これとそんなに実は変わらないんじゃないのかってこと。
そう、容易に把握できるだけの”最適な広さ”ってのは
大人になったら格段に増えるってわけではなさそうだよ、ということ。


子供の頃
世界はとてもとてもシンプルな構造で
この100エーカーの森のごとく
自分ちと、その周辺くらいが
把握されている地図、ってことであったし
その地図の中に描き込まれている
人達ってのも『それ相応の人数』であったと思う。
がん検診を進めるCMかなんかで
小さな女の子が
自分の大好きな人の名称をあげていくものがあるけど
まさにあの感じだったと思う。
今のボクには
『まるっきり本音で語ってもかまわない』深く通じ合える
友人、親友、という人が
誠にラッキーなことに5人もいる。
これは多いのか少ないのかはわからないけど
自分では数少ない自分のラッキーな部分だと思っていて
非常にこの数は『豊か』だと感じている。
この人達は
ほぼボクのすべてを知っている。
そして
ボク、という人間の扱い方が非常にうまく
ボク、という人間を知る能力に”長けて”いる。
ボク自身は
自分の事を非常にめんどくさいタイプの人間で
しかもそのめんどくささは超ド級であると思っているので
それを扱うこの人達は
物凄い類まれなる能力を持った
非常に秀逸な人達だと思っていて
大好きであるとともに
とても信頼しているし、とてもとても尊敬している。
けれどもボクは
この人達と始終つるんでいない。
それぞれの生きるフィールド、てのが
長い年月の中で
まるっきり変わってしまったからだ。
単純に
物理的距離が離れてしまっている(離れてしまった)とも言えるけど
この物理的距離って
ボクらが思ってるよりすごく大きいらしくて
且つ、何かこう・・・言葉で言い表せない
運命的なもの?っていうのか
『そうなるべくしてそうなっている』という絶妙な距離であるような気がしたりする。
実は昨晩
その中の一人と久々に会ってきた。
その人とは文字通り『家族ぐるみのお付き合い』てやつで
もっとも・・・ボクと娘は1セットであるから
親友たちは皆『家族ぐるみのお付き合い』なのだけども
娘も連れて
その人の子どもたちも共に遊び、語らい、食事をしてきた。
時間的にはほんの数時間で
短いのだけれど
得るものはものすごく多い。
互いの子どもたちも
赤ん坊の頃からのお付き合いであり
いわゆる『幼馴染』という感じであるから
それぞれが会うたびに
急激に成長していて進化していたりするのだけど
会うと不思議と、すこっ、と
小さかったころの三人になれてしまうのらしい。
うちの娘も
日ごろはティーンエイジャーにありがちな
蓮っ葉な構えって言うのかな。
なんでも『ださ~』『つまらん』『わっかんね~』『ど~でもいいし』なんて
かっこつけてクールでドライな感じでいるくせに
人が変わってしまったかのように
キャッキャと笑い声をあげ、ドタバタと所狭しと走り回ったりしている。
その様子を見ながら
とても大きく変わったところと
いつまでも変わらないであろう部分を確認して
言葉では言わなかったけど
確かな安心を確信できた、良い夜になったと思う。
自分は
この娘をこの手に抱いて共に生きていくことを決めた時
それ以前の付き合いのほとんどを切り捨てた。
それ以前の付き合いに嫌気がさしたのではなく
自分が決めた形で前に進むために
そうすることが必要である、そうするべきである、と判断したからだ。
また・・・
そういうことになるように
そういう風に考えざるを得ないようになるように
全てが進んでいったともいえる。
それでも
それ以前のボクを知る友人は
まるっきりいなくなったのかというとそうではなくて
かろうじて残ってくれてるのが、2人。
当然その2人も親友カウントで
1人は・・・
亡くなってしまったのでカウントしちゃならないのだろうけど
とにかく、2人いる。
生きてる方の人は言葉のいらない大親友であり
恩師であり、大先輩だったりする。
2~3年に1回会えるかどうか。
電話すらほとんどしない。
それでも、互いに決して忘れることなどない
何か辛い時、ふとした時、必ず思い浮かべあってるという
絶対的な自信を持てるくらいの存在だったりする。
他には
結構一番近いかもしれない友人で
Twitter及び、その他ネットでつながっているし
電話も始終するし
物理的距離は離れていても
年に1回くらいは何だかんだで会うことになるし
関係性が『タイムリー』であると言える人がいて
非常に『タイムリーに』現状を語り合える一人。
もう一人は
同じ町に住む友人だったのだけど
遠くに越していってから
連絡を取るというか
まあ・・・年賀状が互いを行き来する程度。
しかしこれも不思議なもので
つながりが切れた、と感じたことは一度もない。
何故かふと思い立って
つい先日電話をしてみたんだけど
非常に懐かしがってくれて喜んでくれたのは言わずもがな
会っていなかった間の事を
あれこれ言うまでもなく
何を話したでもないけれど
『あ~変わらないね。変わったけど。ははは。』なんて笑える人のままだった。
この人は
ボクが娘と二人で生きて行こうと決め
それを決行する中で
乳飲み子の娘を抱え
仕事も友人も家すらも捨てて
何もかもが信じられない。
何もかもが嘘っぱちだ。
何もかもがクソだ。
と思い
本気の孤独の淵の真っただ中にいた時
本当に、ボクの傍らに立とうとしてくれた人だ。
拗ねきって手のつけられなかった自分に
なんでそうまでしてくれたのか、今でもわからない。
何度か本人に聞いたこともあるけど
『ははは、なんでやろか~、そやったっけ~?』とか言っていたりする。
そしてもう一人は先に触れた
亡くなってしまった人だけど
彼も、つい先日、夢の中で会えた。
微塵も汚れなき世界を表しているかのような
どこもかしこも真っ白な夢の街の中で
互いに別々に暮らしているのだけれど
ボクの行く先々に彼はいて
何を語るわけでもなかったけど
今でも、自分の傍らに立っていてくれているのだなと感じた。
と、長々と書きつづったけれども
そんな人達のいる
ボクの、ボク専用の100エーカーの地図は
ボクだけのものでボクしか見ることはできない。
何度も書き加えられたり
消されたり
消えてしまったり
また加わっていったりしながら
ボロボロになっている地図。
それこそ娘と共に歩み始めて以降
急速に進化していったインターネットを通じて
本当にその地図は
形を変え続けてきたように思うのだけど
なんつのかな・・・
Twitterで言うところの『相互フォロー』的な感じで
向こうの地図にも自分が存在していて
そしてそれは今後も変わらないだろうな、と思えるのは
この5人だけだ。
詳細地図にしていくと
無数の人や場所が存在してるけれど
大枠拡大にすると、たったこれだけ。
この・・・ボク専用の地図の
拡大図に見える大枠が
自分に最低限必要なものであり
これさえあればおまんま食えちゃうのであり
生きていけれちゃうのであり
その他のアレこれは
ひょっとしたら、全て他愛もないことと
深く考えすぎたり悩みすぎたりする必要もないのかもしれない。
FacebookやLINEなんてのをやると
自分が切り捨てた過去や
恐らくはそうなるべくして忘れかけていた過去に急に出くわす。
ボクはアレが非常に嫌いだ。
だから両方ともやらない。
ボクは過去に”なんか”戻りたくない。
前に進まなきゃならないから。
流れゆく時間と共に
移ろいながら生き暮らしていかなきゃならないから。

今だけでもてんてこ舞いなのに
終わらせた過去まで繋げて問題を増やしたくない。
ボクにとっての取捨選択というのは、そういうことだ。
綺麗な思い出のままで置いておきたいし
今さら繋げてどうする?と思ってしまう。
関係が薄らいだり
切られたり無くなったりするのにも
きっと訳があるのだろうと思う。
だから、ボク専用の地図には
『今のボク』に必要なものだけしか描かれない。
そんな風に
みんなそれぞれに専用に地図があって
時々に応じて
ピンポイントに焦点合わせて詳細地図にしたりしながら
その時々のフィールドで考え行動してて
その地図はきっとそのまま自動的に
『その人の許容範囲』が示されていると言えるのかもしれないと思う。
ネットを使って
無限大に増やし続けるのを望む人もいるようだけど
例えば
Google MAPのすべてを見るか?
Google Earthで世界の何もかもを見るか?って~と
きっと見ない。
見たいとこだけ見てるはず。
大きくて分厚い大図鑑のすべてを見るか?
全て見たとしても、全部が心に止まるか?って~と
きっと止まらない。
そもそも見れやしないし、受け止められない。
世界地図や大図鑑のすべてを頭の中にインプットしてる人は
そらすごいかもしんないけど
偉いかというと、偉いってのとは違う気がする。
さて。言いたいことがわからなくなってきたけど
つまり
自分に余裕のない時は
その自分専用の地図ってのをさ
拡大な感じで見て見える
主要なものだけにしていくといいかもしんないよ、ということ。
できるだけね。
自分の意識や行動力やなんかを
広範囲に拡散させても薄らぐばかりで
結局は何も得られなかったり
何もできなかったり
何にもなりゃしなかったりするもんじゃないだろうか。
必要十分な
主要部分さえあればいいじゃないかというとこで
ある意味、無難に手を打って
悩みや苦しみや問題を
とりあえず、ざっくりと軽くしてしまう。ってのは
結構いい案かもしれないよ?ということ。
それが言いたかったんだ。長くなったけど。
なんだかよくわかんないけど
なにもかもがとってもうまくいかないとか
なんだか辛いことばっかりな気がしてならないとか
今のボクみたいに
なんだかわかんないけど
生きてる感じがしないで生きてる。みたいな時なんかはね。
手のひらサイズが一番。きっと。
プーさんの100エーカーの森の地図くらいが一番。
ざっくりと。大まかに。
手に余るほどの情報や関係性は
やっぱこぼれ落ちちゃうもんなのよ。どうしたって。
拾っても拾っても
手のひらに入る量は決まってるから
こぼれてしまうよ。
だから、大事なものがうっかりこぼれないようにという意味でも
何もかも拾い上げるってのは
あまりいいことじゃないかもしんない。
そんな風に思うのでした。

コメント

タイトルとURLをコピーしました